第45話「少女の未練」
「未央は……そうだ……あの日、ランドセルからクマちゃんが落ちちゃって……それで、拾おうとして……大きな、音が……」
ついさっきまで可愛らしい笑顔を浮かべていた未央ちゃんの顔が、まるで感情が抜け落ちてしまったかのような虚ろな表情を浮かべ、譫言のように何かをブツブツと呟いている。
「未央……ちゃん?」
嫌な雰囲気に私は唾を呑み込み、ジッとその様子を見ている事しか出来なかった。
「身体、凄い痛くて……それで、それで……未央は――」
身体を震わせ始めた未央ちゃんの姿は明らかに異常で、何が起こっているのかは分からなくても、それがよくない状態という事だけは分かる。そして――
「あの時、死んじゃったんだ……」
未央ちゃんがそう呟いた瞬間、彼女から黒い影のような何かが溢れ出した。
「きゃあっ!?」
近くにいた私は奔流に押されて倒れそうになる。足を踏ん張って耐え、未央ちゃんの方に目を向けた。
「え? 未央ちゃん、なの?」
そこには黒い靄のような、気体なのか固体なのか分からない、黒い化け物がいた。
「あ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
未央ちゃんだった何かが濁った声で叫ぶ。私はその声に恐怖と、何故か悲しさを覚えた。吠えるような、泣き叫ぶような、二つの相反する感情をその叫びから感じたからだ。
「どうして……何が……」
「自分の死を自覚して、精神が耐えられなくて人としての形が保てなくなったのね」
「坂口さん……私、どうしたら……」
そんな中でも冷静な坂口さん。私は縋るように彼女に助けを求める。
私をではなく、未央ちゃんを助けなくちゃと思って。
だけど、坂口さんの答えは無情だった。
「私達にはどうする事も出来ないわ」
淡々と、何処か諦めを感じさせる声で彼女は言葉を続ける。
「あの子は自身の死に気づかなかったから浮遊霊となった。通常、霊というものは未練があればそれに即した行動を取るものだけれど、彼女は死んだという自覚が無かった所為で迷子になってしまった」
「いや、だ、あ゛あ゛あ゛……おがあ、さん……どこ……おがあさんっ……あ゛あ゛あ゛!」
叫び続ける未央ちゃんは錯乱しているようで、その度、靄のような身体が膨らんで周囲を覆っていく。その身体から、まるで涙のように黒く濁った液体がボタボタと地面に降り注ぐ。
「そして自身の死に気づいた事で、溜め込んでいた未練が暴走しているの。霊に実体は無いから、その形は未練を晴らそうと際限なく膨らんでいく」
「そ、そしてどうなるの?」
「それは場合によって違うから分からないわ。決まったマニュアルのような解決法何て存在しない。正解は自分で見つけるしかない」
という事は、私達は何も出来ずに未央ちゃんが泣き叫んでいるのを見ている事しか出来ないって事?
でも、それでは余りにも彼女が可哀想で、私は泣いてしまいそうになる。
けど、そう思っていられるのもそこまでだった。
「おがあ、さん……なの? ねぇ゛……みえない、の……おがあさん?」
ふと未央ちゃんは私達の方を見て、そんな事を言い出した。
「たすげて……おがあさん……あ゛あ゛あ゛あ゛!」
「ひっ!?」
黒い靄のような未央ちゃんから、手のような何かが飛び出して私を掴もうとした瞬間、背後に引っ張られる。情けない叫びをあげて私が振り向くと、坂口さんが私を抱き寄せるようにして荒い息を吐いていた。柔らかい彼女の身体と、花のような甘い香りに包まれて、平常時なら頭がクラクラしそうになっていただろうけど、身に迫る危険がそれを打ち消してくれる。
「はぁ、はぁ……夕花、気をつけて。どうやら混乱して周りが見えなくなった所為で、私達を母親だと誤認しているみたいだから」
「そ、それって、拙い事……だよね?」
「えぇ、そうね。一先ず――」
坂口さんの身体に力が入るのが分かった。
「おがあさぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛んっ!!」
「逃げるわよ!」
未央ちゃんが叫ぶと同時に、黒い靄の腕が何本も飛び出して私達へと迫ってくる。
「きゃあっ!?」
坂口さんの声に従って、私は走り出す。
公園を出て、外へ逃げる。
「はぁ、はぁ……坂口さんっ、何処に逃げればっ……いいの!?」
「っ、説明している暇は無いわっ……私についてきてっ……!」
私は目の前を走る坂口さんについていくしか無いが、彼女の言う“向こう側”の町の様子は通常とはどこか違っていて、周囲に人の姿は無いのに、“何か”が確かに存在しているような不気味さを常に感じていて、とても落ち着いなんていられない。
そして、背後からは黒い靄のような未央ちゃんが迫って来ていた。
「まっでっ! おがあさんっ……どごにいくのぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!」
「ひっ……いやぁぁっ!」
まるで闇が空間を呑み込んで行くかのように追ってくる未央ちゃんの姿に、本能的な恐怖を刺激される。アレに呑み込まれたら、私も何処かへと連れて行かれるような、そんな予感がした。
何処か歪んだ景色の中を、ただ必死に坂口さんの背を追って走る。
どれくらい走ったか、体感で倍くらいの時間を掛けて、未央ちゃんが亡くなった場所である、あの十字路まで辿り着く。それと同時に坂口さんの足が止まった。
「はぁ、はぁ……っ、どうやら着いたようね」
「さ、坂口さん!? もっと遠くに逃げないとっ!」
驚いた私は坂口さんに叫ぶが、彼女は呼吸を落ち着かせるように深く呼吸をしながら振り返る。
「ここまでで大丈夫よ。あの子は浮遊霊であると同時に、その性質から地縛霊に近い存在だから」
「え? それって、どういう……」
「彼女はこの十字路からあの公園までの間にしか存在しないの。十字路に現れる少女の霊の噂と、彼女の生前の行動が合わさって、一つの現象として存在出来る。私達、こちら側の人間の精神的な思い込みや妄想が形となって現れる――それが“向こう側”の法則みたいなものだと、私は思っているわ」
彼女が何を言っているのか今の私には理解出来なかったが、それでも背後から迫ってくる未央ちゃんは実体を持った恐怖で、私は思わず叫んでいた。
「ほ、本当に大丈夫なの!?」
「ええ。それに、タイミングも丁度佳いみたいね」
「え?」
今度こそまったく意味の分からない言葉だったが、唐突に未央ちゃんだった黒い靄の動きがピタリと止まった。
「あ゛……」
さっきまであれ程に荒れ狂っていた未央ちゃんが、呆けたような声をあげて、私達の背後を見ている。
「坂口さん、何が起こっているの?」
こちらからは何も見えなくて、未央ちゃんがいったい何を見てこんなに驚いているのか分からない。
「見えないのは、私達がまだ“向こう側”にいるからよ。あの子は、私達が居る世界の方の様子を見ているの」
「それって、どういう――」
「今に分かるわ。ほら」
坂口さんが視線だけで未央ちゃんの方を指し、私がそちらの方を見る。すると――
「おがあ、さん……」
それだけを呟いて、未央ちゃんの身体が霧散していく。
同時に周囲の景色もぐにゃりと歪んで溶けるように消えていって、無音の世界に車の音や鳥の鳴き声のような音が戻ってくる。
「これって、私達……戻ってきたの?」
「そうよ。あの子が居なくなった事で、私達を“向こう側”に繋ぎ止めるものが無くなったんでしょうね」
その坂口さんの言葉に、私は安堵するが、同時に苦しさを覚える。
私達は助かった。でも結局、未央ちゃんはあの場所でずっと泣いているのかと思うと、自分だけ助かった罪悪感に苛まされる。
「……ねぇ、坂口さん。これで終わり、なの? 未央ちゃんはずっと、あの場所でお母さんを待っているしかないの?」
そんな悲しい結末は嫌だ。縋るように坂口さんを見る。
「それはどうかしらね。もしかしたら、あの人に話を聞けば何か分かるかもしれないわ」
すると、坂口さんはそう言って、何かを見ていた。
「え?」
言われて坂口さんの視線を追うと、其処には亡くなった未央ちゃんへのお供え物と、一人の女性の姿があった。
「行きましょうか」
「あっ、ちょっと待って!」
坂口さんはその女性の方へと歩き始め、私は疲労した足に力を込めて、その背中を追った。
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