第44話「気づき」
「未央はね、寂しい時はこの子をギュってしてるのっ!」
それはランドセルに釣られた小さな熊の縫いぐるみだった。
手の平に僅かに余るくらいのサイズのその縫いぐるみは、古さは感じるけれど、所々におそらくは生地が裂けたりしたのを修復した跡が見て取れて、彼女がその縫いぐるみを大事にしているのが分かる。
「この縫いぐるみって……」
そう言えば未央ちゃんが事故に遭った時の状況は、ランドセルから落ちた縫いぐるみを拾おうとしたのが原因だったと聞いた。
「お母さんを待ってる時もね、この子を抱いてると安心していられるの……」
愛おしそうに熊の縫いぐるみを抱き締める未央ちゃん。母親が仕事から帰って来るのをいつも一人で待っていると言っていたから、その寂しさをこの縫いぐるみで紛らわせていたのだろう。
「だからお姉ちゃんもこの子をギュってしたら、きっと悲しい気持ちも無くなっちゃうよ!」
「え……いいの?」
「うん!」
そんな大事な縫いぐるみを差し出してくる未央ちゃん。こんな小さな子なのに人のことまで考えられるなんて、本当に優しい子なんだなと思う。
「……ありがとう」
そう考えてしまうと、また涙が溢れそうになって、私は未央ちゃんにその表情を見られないようにしながら熊の縫いぐるみを優しく手で抱き締めた。
柔らかい感触の中にややくたびれてはいる感もあるが、それはきっと未央ちゃんがこの縫いぐるみといつも一緒にいるという証に違いなくて、私は目を閉じてその優しい感覚に心を預ける事にする。
「……」
そんな私の様子を坂口さんが見ているのを感じる。
今、彼女はいったい何を考えているんだろう。短いやり取りの中で、彼女が真っ直ぐな人であるという事は分かった。きっと彼女だって未央ちゃんの境遇に思うところはある筈で、だからこそ、この先に何があるのか私には想像がつかない。
いったい、坂口さんは何を待っているのだろう。
「あっ……もう六時だ」
不意に未央ちゃんが声をあげる。言われて、公園内の時計を確認すると、午後六時を過ぎたところだった。
「そうだね……暗くなりそうだね」
「う、ん……」
未央ちゃんの言葉に返すと、さっきまで笑顔だった彼女の表情が曇りだす。
「未央ちゃん、どうしたの?」
「お母さん……」
ポツリと零れ落ちたその「お母さん」という言葉と、彼女の様子から何が言いたいのかを理解する。
未央ちゃんは母親が来るのを待っているけれど、その時が訪れない事を、彼女は知らない。本来なら彼女はこの時間にはお母さんと一緒に家に帰っているんだろう。
「いつもなら、もう来てる筈なのに……どうして? でも未央は、未央は……あれ……未央って――いつから此処にいるの?」
だけど未央ちゃんのお母さんが来る事は無いから、今、未央ちゃんの中ではその違和感、祖語のようなものから、事実に気づこうとしているんじゃないだろうか。
「っ……あの、未央ちゃん……坂口さんっ!」
真実を伝えるべきか、それとも流れに身を任せるべきなのか分からなくて、私は坂口さんに助けを求める。けれど、彼女は表情を変えずに私達の様子を見ながら、ただ一言だけ、答えになっていない言葉を呟いた。
「そろそろ限界みたいね」
「限界?」
まるで全て予想していたかのように言う坂口さん。それはもしかして、未央ちゃんが自身の身に起きた出来事について気づく時が来るのを分かっていたという事なのか。
だとしたら、坂口さんの目的は未央ちゃんを救う事じゃなくて、その先にあるものだった……そういう事?
それはとても残酷に思えて、私は坂口さんに何かを言おうとした。別に、具体的に何を言いたいか考えていた訳ではないけれど……酷いとか、見損なったとかだろうか、でも、私はそもそも彼女のことをよく知らない。むしろ、それこそ何も出来ない自分は彼女に何かを言える立場なのかと、そう思って結局私は何も言えなかった。
「夕花」
「っ!? な、何?」
と、不意に坂口さんに声を掛けられ、私はビクリと身体を跳ねさせる。
全てを見通すような瞳が私の方をジッと見ている。私は目を離せない。
「いつでも逃げられるようにしておきなさい」
「え? どういう事?」
坂口さんの言った言葉の意味が分からず、私は更に混乱してしまう。
「所謂、浮遊霊と呼ばれる霊は自身が既に亡くなっている事に気づいていない、或いは受け入れられない霊というものだけれど、もしその真実に気づいてしまったとしても、そうそう簡単に成仏なんて出来るものではないわ」
「じゃ、じゃあ、未央ちゃんはどうなっちゃうの!?」
それでは気づいてしまった浮遊霊は、未央ちゃんはどうなってしまうのか。私は坂口さんに答えを求めるが、彼女は無言のまま未央ちゃんの方を指差し、私は恐る恐るそちらへと目を向けた。
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