第42話「此処とは違う場所」

「何? これ」

 公園の敷地内に足を踏み入れた瞬間、まるで水中に落ちたかのような抵抗を感じる。

 世界が揺らいで、景色が歪み、自分の身体が浮かんだような感覚の後、気づけば私は公園の敷地内にいた。

 自分の存在が不安定な気がして、思わず自身を見下ろしてちゃんと手足があるかを確認してしまう。

「今のは――」

「それが、“向こう側”に触れた感覚よ」

「っ、坂口さん?」

 声を掛けられて顔を上げると、私の目の前に坂口さんがいて、こちらを気遣うような視線を向けていた。

「気分は大丈夫かしら?」

「ん、変な感じはするけれど、でも問題は無いと思う」

「そう。なら佳かった。ここは私達が存在する世界とは似てるようだけど、少しだけ違う場所だから、何かあったら直ぐに言ってちょうだい」

「ここがその、“向こう側”っていう場所なの? 何だか、特に変わったところが無いように見えるんだけど」

 そこは本当に何の変哲も無い公園で、私が“向こう側”というものに対して想像していたおどろおどろしさみたいなものは一切感じない。確かに違和感はあるが、それはとても些細な感覚程度のもので、気を抜けば見失ってしまいそうだった。

「正確には、ここは“向こう側”とこちら側……つまり私達が普段存在している世界との間のような場所なの。混じり合っていると言えば分かり易いかしら」

 坂口さんの言葉はやはり、何となく想像は出来るが、理解が追いつかないものだった。つまり、私達は別の世界にいるみたいな状況って事?

「混じり合っている……なら、私達は今、何処に存在しているの?」

「どちらにも存在していると言うのが正しいわね。例えば、私達の姿は両方の存在から見えているわ」

「両方って?」

「人間と、“向こう側”の存在、その両方という事よ」

 そこまで言って、坂口さんが公園内の一点を指差す。

「だから、今はあの子も私達の存在を見る事が出来るわ」

 釣られて坂口さんが指し示す方を見ると、

「あっ……あの子って、さっきの」

 一人で公園のベンチに座り、呆っと空を見上げている女の子――あの十字路の霊がいた。

「何をしているのかな」

「流石にそれは分からないわ。ただ、もしあの子が自身の死に気づいていないのなら、無意識に生前の行動を取っている可能性が高いわね」

「ああ、そういう話ってよく聞くけど、本当にそういうものなんだ」

「勿論場合によるわ。その行動に対して強い執着がある霊がそういった行動を取り易いという話で、今回の場合、彼女はずっとあの十字路を通り、この公園までやって来るとしたら、そこには相当強い想いがあるのかもしれないわね」

 私にはその行動にどういった意味があるのかは分からないけれど、あんな小さな子がそれだけの執着を持って行動するというのはいったい生前に何があったのか。本当に私達が関わっていい事なのか、怖くなってくる。

「何にせよ、あの子と対話してみない事には始まらないわね」

「た、対話って、幽霊と話すって事?」

「そうよ。今日はその為に来たのだから」

「聞いてないよぉっ……!」

「確かに言ってはいなかったかもしれないわね。まぁ、ここまで来たのだし、諦めて付き合って頂戴」

「うぅっ」

 それはそうなんだけど、私の中の臆病な部分がまだ抵抗しようとする。だけど、

「それじゃあ、行きましょうか」

「……うん」

 今この状況で坂口さんにそう言われたら、やっぱり私に選択権は無い。だったらもう、私は覚悟を決めてしまうしかなかった。

 私は坂口さんに続いて歩を進める。幸いなのは、目的のあの子の姿が人間にしか見えなくて、視覚的な抵抗感は皆無な事か。

 幽霊と言えば、足が無かったり白装束を着ていたり、あるいは事故で亡くなった当時の壮絶な姿をしていたりするのを想像する人もいるかもしれないけれど、少なくとも目の前にいるあの子は至って普通の小学生くらいの女の子にしか見えなかった。

 肩くらいまで伸ばした髪、あどけない表情に、少し古びたピンク色のパーカーを着ている少女。彼女が鼻歌でも口遊んでいるのか、微かに流行りのドラマの曲が聞こえる。

 少女は私達の方をまったく気にしていないようだったが、流石にこちらが自分の方へと近づいて来ると気づいたようで、警戒するように鼻歌を止め、ジッとこちらに視線を向ける。

 私はその視線に若干足が遅くなったが、坂口さんはまったく変わらない調子で歩を進め、少女の目の前まで来ると、しゃがんで目線を合わせた。

「な、何ですか?」

 すると、緊張したような震え声で少女が言葉を発した。子供にありがちな高い声が掠れていて、少女の緊張度合いが手に取るように分かる。

 私だったらその言葉に上手く受け答え出来る自身は無いのだが、坂口さんは常と変わらない雰囲気で口を開く。

「あなたは一人かしら? もう直ぐ陽が暮れようとしているけれど、お家に帰らなくていいの?」

「……もう直ぐ、お母さんが迎えに来るから、大丈夫です」

 小さな声で少女はそう返答した。どうやら、霊と言っても普通に会話は出来るらしい。

「そうなのね。お母さんを待てて偉いのね」

 坂口さんの声は何処か優し気で、彼女も小さな子と喋るのを意識しているみたいだった。だからといって、少女の警戒が薄れる筈もなく。

「あの……お母さんから知らない人と喋っちゃいけないって……」

 警戒心も露わにそう言われてしまう。しかし坂口さんも引き下がらない。

「あら、ごめんなさい。それそうね――それじゃあ、私達から自己紹介しましょうか」

「え? え?」

「私は坂口夜娃華。こっちは橘夕花。あなたが一人でいるみたいだから、心配して声を掛けただけなの」

 と、坂口さんが私の方にも目配せしてくる。どうやら私にも何か言えという事みたいだ。

「あっ、その……偶々、あなたが公園で一人でいるのが目に入って、ね……他に大人の人も、友達もいないみたいだから、気になっちゃって……」

「あうっ、うっ……?」

 目を白黒させる少女に対し、一方的に自己紹介を押しつけていく。コミュニケーション能力が有るのか無いのか分からない展開の仕方だけど、少なくとも少女は突然の事に完全に頭が回っていないようだった。

「あなたのお名前は?」

「へ? し、清水未央です……あっ」

 勢いに押されて名前を言ってしまった事に少女――未央ちゃんは慌てたように口を手で抑える。

「未央ちゃんね。よろしく」

「……お母さんに知らない人に名前を教えちゃダメって言われてたのに」

「くすっ。未央ちゃんはお母さんの言いつけをちゃんと守ろうとして偉いのね」

「はうっ!?」

 そう言いながら、坂口さんは未央ちゃんの頭を撫でる。

 最初は驚いたようにしていた未央ちゃんだが、撫でられるのが気持ちよかったのか、少し笑顔になる。その様子に、私も彼女が幽霊であるという感覚が薄まって来て、自然に喋りかける事が出来た。

「未央ちゃんのお母さんは、どれくらいで来るの?」

「後少しで来る……と思う。お仕事がちゃんと終わってたら」

「お父さんは?」

「……お父さんは未央が小さい時から居ないの」

「あっ、ごめんなさい……」

 拙い事を訊いてしまったかと思った。けれど、未央ちゃんはまったく気にしていないようだった。

「ううん、お母さんがいるからいいのっ」

「そうなんだ。未央ちゃんはお母さんが大好きなんだね」

「うんっ! お母さんはいつも忙しそうにしてて、あまり遊んだりしてくれないけど、未央のためだって分かるから」

 お母さんの話になると、未央ちゃんの口数が増えていく。その様子からは、彼女がどれだけお母さんのことが好きなのかが伝わってくるようで、それだけを見ると、とても彼女が幽霊だなんて思えなかった。

 そう――彼女はもう、死んでしまっているんだ。

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