第28話 15歳──夏の終わり、川べりの道
「まだ八月なのに、ここらへん、もう秋みたいな感じだよねえ」
茜音の視線のさきに、比宇可川の土手に生い茂るススキがあった。
すでに若い穂を出した、たくさんのススキが、川からの風で揺れている。その光景が、茜音にそんな感想を言わせたらしい。
日没までにはまだ間がある時刻だが、傾きかけた日ざしが、茜音の髪や、Tシャツから出た肌を、金色に染めている。
「そうだな。お盆すぎたら、こっちの夏は、もう終わりだからな」
「うん。……うちのおばあちゃんとかも、そう言ってたけどさ」
おばあちゃん、というのは、茜音の母方の祖母である。体が弱くて、比宇可町の高齢者施設で暮らす彼女のもとへ、茜音は時おり、面会に行っているようだ。
比宇可川ぞいの遊歩道を、特にあてもなく、二人で歩いている。
夕暮れが少しずつ近づいてくる時刻。
川べりのこの道を、茜音と一緒に歩きたくて彼を誘った。
茜音のほうも、理人の誘いに「うん、いいよ」と二つ返事でついてきた。
「明日から、学校、はじまるね」
隣を歩く茜音が言った。
くるんとしたかたちで、理人を見上げる瞳は、遊歩道が木陰に入ると、いつもよりすこし、淡い色になる。
「前にいた埼玉だったら、八月の半ばすぎなんて、まだ夏休みだけどさあ」
「ああ、そっか。……今の時期、あっちはきっと、暑いよな」
「暑い暑い。オニ暑いよ」
川から流れてくる涼しい風のなかで、茜音が笑っている。
ああ、いいな、と思う。──茜音がこんなふうに、素直に笑っているのを、俺は見ているのが好きだな、とシンプルに思う。
笑っている茜音の瞳は、とても。
とても──なんだろう。
……なんて言えば、いいだろう?
「埼玉の、あの地獄的な暑さに比べたら、朝とか、めっちゃ涼しいじゃん、こっちは」
「まあなー」
「天国みたいなもんよ、比宇可の夏なんて」
茜音が声をあげて笑ったので、理人も笑った。
ふたりで話すのは、わりあいに久しぶりだった。中学三年の夏、理人と茜音が歩いている道は、微妙に離れはじめていたからだ。
父親が町長をつとめている理人には、この田舎町を出て、それなりの高校に進まなければならない、という暗黙のシナリオがあった。従兄の俊一も札幌の名門高校に進んだし、両親も学校の先生たちも、そんなふうに期待していた。
理人自身も、なんとなく自分はそうするんだろうな、と思っていた。──だから、中学最後のこの夏は、電車で一時間ちょっとかけて、旭川の受験予備校の夏期講習に通っていて、そのせいで、茜音に限らず、比宇可町の友達とはなんとなく、疎遠になっている。
さえぎるもののない広い空が、遠くの山までずっと続いている。
その空も、夕暮れが近づくにつれて、少しずつ、色を変えつつある。
「理人ってさー」
唐突に茜音が言った。
「どうして、理人って名前になったの?」
なぜ、彼は。
「あ? 俺の名前?」
「うん。名前の理由。誰が、そうつけた、とかさ」
──あのとき、そんなことを、俺に尋ねたのだろう。
「あー……それはねえ、ドイツ語で、『光』っていう単語が、リヒトっていうんだって」
「へえ」
「で、父親のほうが『りひと』っていう音にしようって決めて。……母親のほうが、漢字を決めたらしい」
「……ふうん」
二人のスニーカーの足音と、川の流れる音。
それから、すすきを揺らしていく風の音。
「理人は……自分の名前、どう思ってる?」
「どうって?」
「好き? それとも、嫌い?」
「好きっていうか、……まあ、こんなもんかなーって感じ」
頭上の高いところで、ピーヒョロロロ……と、鳥の鳴く声がする。
とんびだろうか。
見上げると、空の高いところに、翼をはばたかせず、風の流れに乗って滑空している、一羽の鳥の姿がある。
「茜音の名前は?」
隣を歩く横顔を、ちらりと見た。──あまり、見つめすぎてしまわないようにしながら。
「あー、俺の名前ね」
茜音はかすかに笑った。
「名前だけだと、たいていっつうか、ほぼ百パー、女子に間違われるね」
「あ。まあ……そうかもな」
「だから結構、苦労してんの、俺」
「ははは」
「……なんで、こんな名前をつけたのかな」
そうつぶやくところを見ると、茜音は、自分の名前の由来をよく知らないらしい。
「聞いてみなよ。お母さんに」
そう言ってから、また、隣の茜音を見た。
けれども茜音は、理人の言葉に何の答えも返さない。……なにか、自分自身の中の考えごとに、とらわれてしまったように。
川を渡ってくる風が、土手のすすきを揺らしている。
まだ広がりきらない、若く、白いその花穂が、かげりはじめた日ざしのなかで、きらきらしている。
ああ、もう夏も終わる。──と、ぼんやりそんなことを考えた理人の耳に。
「うちさ。……お母さんが」
茜音の言葉が飛びこんできた。
「……今度、再婚することになったんだ」
え? と一瞬、口に出しそうになったのを、慌てて理人は飲みこんだ。
告げた茜音の声は、淡々としている。
特に嬉しそうでも、特に悲しそうでもない、そんな表情。
「明日は水曜日だね」とでもいうような、カレンダーの予定を述べる程度の声音で。
「え……と、それは」
おめでとう、とか言うべきなのだろうか、と考えあぐねているうちに、茜音が笑って、理人のほうを見た。
「ごめん。反応、困るよな」
茜音は笑ってはいるけれど。
──無理に笑顔を作っている、そういう笑いかただった。
「前にさ。……ほら、理人に、お母さんが、夜、帰ってこないことが、続いたって話したじゃん?」
「あ……ああ」
「それ……そのおじさんと、再婚することになったからってことだった、みたい」
茜音の言葉は、そんなふうに続いた。
すすきを揺らす風の音が、急に強くなって、草むらがいっせいにざわめいた。
「いつ、再婚するの?」
「うん。……再来月……十月かな? 引っ越しして、そのおじさんの家に、三人で住むことになるし、俺、……苗字も変わっちゃうんだよね」
「え、引っ越すって、おまえ、どこに?」
「同じ比宇可の町なか。今度は……ほら、保健センターのそばに『木村ストア』っていうちっさなスーパー、あるじゃん」
「ああ」
「あのそばの一軒家」
「……そうか」
「むしろ、今よりも理人の家のご近所さんになるよね」
「だな」
「……それに、学校も転校しなくてすむし」
茜音の声は、「遠回りしている」みたいに聞こえた。
何か「言いたくないこと」があって。
それを避けなければいけないせいで、そのほかの言葉も、全部、遠回りになってしまうような。
「そのおじさん、っていうか……その、お母さんの再婚相手になるひとに、茜音は、会った?」
「ああ、会ったよ。まだ一回だけだけど」
「どんなひとなんだ?」
「うーん、そうね……普通のおじさん、だった」
「ふうん」
「ていうか、普通のおじさん、としか言いようがないや」
困ったように笑っている。
「年は、うちのお母さんより、八歳上、なんだって。……ええと、四十六歳、かな? 仕事は市役所の土木課に勤めてるひと、だって。つまり、ほら、公務員」
気を取り直したように、茜音は、その再婚相手について説明をはじめた。すると、とたんに饒舌になった。──奇異な饒舌さだった。
だから。
「おばあちゃんがね、喜んでたんだ。……公務員ってのは、いいよねって、すごく喜んでた」
だから理人は、あいづちさえも、打てなくなった。
*
中学三年の二学期、茜音の姓が変わり(日本で何番目かに多いような、ありふれた苗字だった)、それが学校で発表されて、彼の母が再婚したことを知った。
引っ越しもしたようで、「自分の部屋をもらった!」という、テキストメッセージ(普段の茜音がそれほど使うことのない、スタンプがたくさんついていた)が届いたのも、よく覚えている。
そして、再婚を機に茜音の母が仕事をやめ、家にいるようになった、ということを聞いて、それはよかった、と思っていた。──「千円札が三枚、置いてある」ような家で、茜音がひとりで過ごすわけでは、なくなったから。
中三の冬が始まる頃、旭川の難関高校に向けて、受験勉強に集中しなければいけない理人の生活は、かなり忙しくなっていた。
その翌年の春、二人は別々の高校に入学して、茜音と理人の道は、はっきりと分かれはじめた。
別の道を歩きはじめた二人には、共通項が少なかった。
あるのはたぶん、理人のほうの──一方的な片想い、だけだった。
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