第5話 深夜のココア

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「つ、疲れた……」

 茜音は、勉強机がわりの食卓の上につっぷした。

 予定の終了時刻をかなり過ぎて、時計の針が十時半を回った頃、ようやく、二つ目の数学の授業が終わった。

「悪い。がんばらせすぎたな」

 理人のほうは平気な顔だ。

「いえ、ダイジョーブっす」

「俺のほうは、もうすでに理解してる内容を、おまえに説明してるだけ、だけど。……茜音にしてみりゃ、初めて理解することを、一生懸命わかろうとして勉強してくれてるんだもんな」

 そりゃ、疲れるよな、と言って、理人は、テーブルにつっぷしたままの茜音の髪に指をさしいれた。

 くしゃくしゃ、くしゃり、と、三回。

 髪をかきまぜるようにしたあと、理人の手は、離れていった。

「ココア淹れたら、飲むか?」

 テーブルから立ち上がった理人が言った。

「飲むー」

 そう答えて、理人のあとに続いてキッチンに行った。

 理人はココアが好きで、中学の頃にも彼の家に遊びにいくと、よく作ってくれた。

「英語も数学も、おまえ、かなり形になってきたな」

 食器棚から、理人がマグカップをふたつ取り出した。

 くすんだ水色と、クリームイエローのカップ。色ちがいの、揃いの陶器。

「え、ほんと? 理人、そう思う?」

「うん。……こんなに短期間で、これほど、よく伸びたよ」

 赤いスティック包装のココアの袋を、理人の指がねじって切った。

「へへへ」

「よくがんばってるな、茜音は」

 茜音が「欲しい言葉」を、理人は、さらりと口にする。

 華やかにラッピングされたプレゼントではなく、普段使いの日用品のような確かさで。

「遅くなったし。……茜音、泊まってくか?」

 さらさら、と、ココアの粉末を、理人がカップの中に入れていく。

「おまえの家まで、ここからまた電車に乗って帰るの、しんどいだろ」

 理人のマンションと茜音のアパートは、地下鉄で二駅ぶん離れている。

 電車を使えば三十分ほどで行き来ができるような距離だが、寒い夜、勉強で疲れたあとに、自分のアパートに帰るのはどうにも気が重かった。

 勉強が深夜にまで及んだときには、理人のほうから誘ってくれて、これまでにも何度か、茜音はこの部屋に泊まらせてもらったことがあった。

「泊まっていけよ」

 ポットの湯を注ぎながら、理人が言った。

 彼は、手もとのカップふたつを注視していて、茜音のほうに視線を向けていない。

「うん。……じゃあ、そうさして?」

「いいよ」

 カップに冷蔵庫から取り出した牛乳を加えて(お湯と牛乳の割合を「三対七」で作るのがポイントだそうだ)、理人は、電子レンジの中にふたつのカップをいれる。

 そして、そんな彼の一連の動作を、ぼんやりと茜音は見ていた。

 背の高い体、インディゴブルーのシャツと、濃紺のジーンズ。

 黒い前髪がさらりと額にかかる、聡明そうな横顔。銀のスプーンを持つ骨ばった手と、長い指先。

 視線が、どうしようもなく吸い寄せられてしまうほど、魅力的だった。——勉強で疲れた頭で、ぼうっと見ているからなのか。

 理人のすべての動作を、つい、視線で追いかけてしまうぐらいに。

 そのとき、電子レンジが、ちん、と小さな音をたてた。

「お、できたできた。……う、熱」

 理人は、電子レンジからカップを取り出そうとしたが、熱すぎて持てなかったらしい。

 シャツの袖口をするっと伸ばして、手のひらを覆うと、それをキッチンミトンがわりにして、二つのカップを調理台の上に置いた。

「どうぞ」

 理人は、水色のカップのほうを自分に、そして、クリームイエローを、茜音のほうへと差し出した。

「ありがと」

 水色のカップが理人で、イエローのほうが茜音。

 なんとなく、そんな習慣ができている。

「熱いぞ?」

 理人と同じように、茜音も、シャツの袖口を伸ばして手を覆って、カップを持ってみた。

 熱すぎて、すぐには飲めない。

 ふう、ふう、と息をふきかけて冷まそうとしながら、ふと、さっき思ったことを口にのっけてみたくなった。

「あのさ」

「なに」

「理人って、ときどき、めっちゃ、かっこいいのな」

 何の気なしに茜音が告げた瞬間。

「は? おまえ、なに言っ……」

「あっ、理人!」

「——うわっ、熱っ」

 向かい合った理人が突然、熱いココアがはいったカップを手から取り落とした。

 転がった水色のマグカップ。床に、びしゃっと広がるココア。

「理人……大丈夫?」

「……っちー……」

「手、ヤケドした?」

 あわてて、茜音は自分のココアを調理台に置くと、向かい合った理人の右手を両手で持って、自分の目の前で検分した。

「指? 手の甲?」

「……人差し指と中指」

「冷やさなきゃ」

 茜音はそう言って、シンクの蛇口から水を出し、流れる水の下に、理人の手を差し出させるようにした。

 自分の両手で、理人の手を持ちながら。

「大丈夫?」

 そう言って、そこでようやく、茜音は理人の顔を見た。

 理人の手を引っぱって、シンクにかがみこむようにしていたから、彼の顔が、思いがけないほど間近にあった。

 目があった。

 至近距離にある彼の顔が──なぜか、真っ赤になっていた。おまけに、理人は茜音から視線をそらした。

 ぎくしゃくと。かなり不自然な動きで。

 え……ええと?

「ご……ごめん」

 茜音は、なにか、悪いことをしてしまったような気になって、反射的に謝った。

 なにが悪かったのか、よく、わからないけど。

「……いや」

 理人は、短くそう言うと、茜音の手から、自分の手を引き戻した。

 水道の水が、二人の間に流れて、シンクに落ちてゆく。

 無言のまま、理人がそれを止めた。

「これ、……かたづけなきゃ」

 茜音から目をそらしたまま、理人がそう言って、雑巾を持ち出してきた。

「も……もったいなかったね、ココア」

「……ああ」

「理人、まだひとくちも飲んでなかったのに」

「また作るさ」

 理人の声は、淡々として、低い。

 彼の声が低いのはもとからだが、このときは、何かを隠しているように低い、と思った。

「カップは?」

「割れてない……な。無事」

「よかった」

「落ちたのが、フロアマットの上だったから」

 会話のラリーが続いて、二人のあいだに、なんとか普通の空気が戻った。

 ──いつからだろう。ふたりでいると、こういうことが急に起こる。

 理人が急に黙って、顔を真っ赤にしてしまったり、あからさまに不自然に、視線をそらしたり。

 引き金になるのは、茜音の行動のどこかに何かがあるらしいのだが、それが何なのか、茜音はよくわからない。

 俺が何かの地雷を踏んでいるのか、とも思うのだけれど。

 彼を怒らせてしまったのか、気分を害するような何かをやらかしているのか、心配になって、自分の言動を反省してみたりする。

 けれど、そのくせ理人は、なにかと茜音のことを構ってくるのだ。

 マフラーの合わせ目を直してくれたり、茜音の髪をくしゃくしゃくしゃ、とかき混ぜたり。

 ココアを淹れてくれて、もう遅いから、泊まっていけよ、と言ったり。

 あるいは。

 黙って、茜音のことを見ているときもある。

 教えてもらっているときに、ふと気づくと、理人は黙ったまま、問題を必死に解いている茜音の横顔を見つめていたりするのだ。

 茜音が視線を向けると、理人のほうは、すぐにそらす。

 そんなときの彼は、たいてい、悪い悪戯が見つかってしまった少年のように、バツが悪そうな表情をしている。


 ……なんで、なんだろう?

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