第4話 友達だから

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 母の保険金が支払われることがわかったとき、まっさきに茜音の心に浮かんだのは、「高卒の資格を取りたい」ということだった。

 通信制の高校に入り直して、という可能性も考えたが、それよりも、一回の試験で合格することができる「高認」のほうがいいかもしれない。

 今から準備すれば、十一月の試験まで七ヶ月ある。結果の発表は十二月の初旬。つまり、合格すれば、今年中にだって「高卒資格」を手にできる。

 うわ。マジで。──と思った。

 俺、今年じゅうに、高卒になれちゃう……って、こと?

 スマホで検索して(文部科学省のホームページなんて、初めて見た)、それがわかったときに、一瞬で心の中の色彩が、ぱあっと明るく変わったのを感じた。母が亡くなって以来、そんな気持ちになったのは、初めてかもしれなかった。

 だから、札幌に引っ越してきて、即座に本屋に行った。──だが、問題集を買ってみてわかったことは、「他の教科はなんとかなりそうでも、英語と数学は、ほとんど絶望的」ということだった。

 中学の範囲すら、すっからかんに忘れている。茜音一人では、どうやって勉強していけばいいのか、そのことにすら、途方に暮れるほどだった。

 理人に打ち明けたら、彼は「ちょっと、問題を見せてみて」と言った。ぱらぱらとページをめくって問題を眺めたあと、「だいたい中三から高一ぐらいにかけての内容だな」と、独り言のようにつぶやいた。

「理人は、コレ、わかるの?」

「わかるよ」

「マジで? ホントに?」

「うん」

「おまえって、すっげーんだな……」

 しみじみと驚いている茜音に向かって、理人は、一つの数学の問題を指し示した。

「たとえばこの問題、一緒に解いてみようか」

「え? い……今? ここで?」

「うん。今、ここで」

 そのとき、ふたりはファーストフード店でハンバーガーを食べていたのだが、それを食べるほんの片手間に、理人はその数学の問題を、茜音に向かってすらすらと説明してみせたのだ。

 魔法みたいだった。

 「わからない」「俺はダメだ」という気持ちで、凝り固まっていた茜音の意識が、理人の声と言葉で、するするとほどかれていったのだ。

 理人の説明はよどみなく明快で、何が茜音の理解を阻んでいるのか、それをどう正解にまで導いてやればいいのかも、彼には、はっきりとわかっているようだった。

「じゃあ、……あの、さ。理人、この次の問題も、教えてくんない?」

「ああ、コレ? オッケー」

 かろやかに言うと、理人は、シャープペンシルを使い、問題の図の中に補助線をいくつか引きだした。

 そうして、茜音のつたない理解の場所まで厭うことなく降りてきて、茜音の手をひっぱりあげてくれた。そして、一歩一歩、一緒に階段を昇るようにしながら、正解の場所にまで連れていってくれたのだ。

「……すごい」

「なにが」

「理人の説明で、俺、今、ウッソみたいに、わかるようになった」

 思ったままのことを口にしたら、しみじみとした口調になった。

「ほんと? なら、よかった」

 理人は、照れたように笑った。照れてはいるけれど、ひどく嬉しそうだった。

「おまえって……天才だったんだな」

「なに言ってんだよ」

 そう口にしたときには、まだ理人は、普通に笑っていたのだ。

「だって、俺、初めて、理人の今の説明で、この問題、わかったんだもん」

「……」

「それに今、理人は、俺のことを一ミリもバカにしないで説明してくれたじゃん。……どこがわからないのかを言っても、理人は『そうか』って言っただけで、俺のこと、全然、バカにしたりしなかった」

「……ん」

「そんで、ちゃんと俺の言葉を、聞いててくれた」

 茜音の言葉の途中から、理人は急に黙りこんで、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。

 ただ正直な気持ちを告げただけなのに。——理人ときたら、顔どころか、両耳まで真っ赤になるほどだったのだ。

 中学の頃から周囲よりもずっと大人びていて、冷静にふるまうことの多い理人が、そんな激烈な反応を見せることなど、ほとんどない。

「ど……どうしたの、理人」

「……」

「俺、なんか、そんなヘンなこと、言った?」

 とりなすように茜音が言っても、理人は目をそらして黙り込んだままだ。そして、顔が赤い。

 しかたなく、茜音もおとなしく、シェイクのストローをくわえて彼を見ていたのだが。

 ——なんでそんなに、理人、顔、真っ赤にしちゃうんだろう。 

 そのときは、ただ、不思議に思っただけだったけれど。


 ハンバーガーショップの一件の後、茜音は、二日間、さんざん考えあぐねたすえに、理人に電話をかけた。

 ──俺ね、理人にお願いがあるんだ。

 俺の家庭教師に、なってもらえないかな。

「この前、理人、バイトで、中学生の家庭教師してるって言ってたでしょ」

「ああ……うん」

「それって、だいたい、いくらぐらいで教えてたの?」

「んー……一回の授業が九十分で、三千円かな」

「じゃあ、俺、それと同じ額を理人に払う。試験は十一月だから」

「え、茜音」

「あと七ヶ月ぐらいのことなんだ。英語と数学。無理なら、数学だけでも」

「そんなの、いいよ。茜音は、だって……俺の友達じゃん」

 電話の向こうから聞こえてきた、理人の言葉。

 ——「茜音は俺の友達」。

 あらためて耳にすると、その言葉は、茜の心の深い場所に、静かにしみこんでいった。そして、あたたかな色彩でひろがった。

 茜音は俺の友達。茜音は俺の友達。

「だからさ、フツーに。お金とか関係なく、教えるよ。俺でよければ」

 理人の低い声は、そんなふうに続いた。

「いや。これから、半年以上の間のお願いになるはずだもん。そんなに長い間、理人に、タダで俺のために時間を使わせられないよ」

「……」

「ちゃんと、お金を請求してほしい」

 茜音は、必死に言い募った。

 ——どう言えば、通じるだろう。

 茜音が感じているこの不安を、理人にわかってもらうとするなら。

 中学で出会ったときから、母子家庭育ちの茜音に、理人は、たくさんのものを分け与えてくれる友達だった。

 凍えていたときには、暖かい部屋に入れてくれた。途方に暮れたときには、明りをともすような言葉を。さびしくてつらいときには、一緒にそばにいてくれる時間を。

 そして、茜音がどうしようもなく傷ついて、苦しかったあの初雪の夜——十六歳の茜のアパートに駆けつけて、泣きながら救急車を呼んでくれたのも、理人だったのだ。

 けれども自分は。

 昔からずっと、理人から「もらう」ことしかできなくて、彼に「返す」ことができなかった。

 家庭環境に差がありすぎる子ども時代なら、それも仕方のないことかもしれない。

 与えることばかりが続いて、得るものが少ない関係性でも、「子どもどうし」なら友達でいられる。

 だが、今、茜音と理人は十九歳で、誕生日がくれば二十歳になる。

 この年齢になってからも、子ども同士のころのような関係性を続けてしまったとしたら──「もらってばかりで、返してくれない」友達の存在を、いつか、理人は重荷に感じるのではないか。

 今は、「友達」だけど。

 だけど、ふたりがこれから、もっと大人になっていったら──理人には、「友達」よりも、きっと大切なものができるはずだから。

 それはおそらく、「彼女」という存在だろうな、と茜音は思っている。

 今の理人には、なぜか彼女がいない。同性の茜音から見ても、めちゃめちゃモテるだろうなこいつ、と思うのに(実際、中学時代の理人は、「女子からの本気の告白数」というのがすごかった)、なぜか。

 でも、もうじき、そう遠くない未来に。

 たぶん理人には、「友達」よりも大事にしたくなる、恋人という存在ができるはずだ。

 だから、それまでの間だけでもいい。茜音は、理人のいい友達でいたいのだ。

「あのさ、茜音」

「うん」

「その話さ。……二日間ぐらい、返事、ちょっと待ってもらえないか」

「あ。……うん。もちろん、いいよ」

「おまえに教えるのが、嫌だってわけじゃないよ? でも、なんていうか……」

「そうだよな。おまえだって、いろいろ大学とか、忙しいよな」

「いや、大学も、忙しいっちゃ、忙しいんだけど」

「ごめん、急にめんどくさいこと頼んで」

「めんどくさくなんか、ないんだけど。……ていうか。俺は、……」

 理人にしては、めずらしく歯切れの悪い返事だった。

 彼らしくなく、言い淀んだり、逡巡したりするのを繰り返して、結局、その電話を終えた。

 そして返事は、理人が約束したとおり、二日後、ラインでやってきた。


「家庭教師として、英語と数学を教える件、俺に頼んでくれて、どうもありがとう。

 俺に頼んでもらったことが、嬉しかったです。


 英語、一回、九十分。数学、一回、九十分。

 その二つの授業を、週に一回でどうですか?


 授業料だけど、茜音は、俺の家庭教師のバイト代と、同じ額を払ってくれるって言ったけど、俺からのお願いで、その半額にしてください。

 茜音は、俺の友達だから。

 そうさせてください」


 ラインの吹き出しの中の「茜音は俺の友達だから」という言葉が、電話で聞いたときよりも、さらに強く、茜音の心の中に残った。

 スマホの画面に並んだ文字が、そのまま理人の声で変換されて、茜音の耳の中でリフレインした。

 茜音は、俺の友達だから。茜音は、俺の友達だから。

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