第6話 闇がもっとも濃い時刻

     5


 泊まらせてもらった、その夜。

 また、あの夢をみた。


 ジャンケンに勝った茜音は先に風呂を使わせてもらい、理人からパジャマを貸してもらって、布団に入った。

 理人が寝室として使っている部屋で、理人は彼自身のベッドに眠るが、茜音は、そのベッドの下に客用の布団を敷いて眠る。ここに泊まらせてもらうときは、いつもそうしていた。

 ふたりで深夜のニュースを見たり、たわいもない話をして、ふだんどおりの感じで布団にもぐりこんだ。

 勉強で疲れていたせいなのか、あたたかな眠りは、茜音のもとへとすぐに訪れた。

 ──そして、明け方ちかく、闇がもっとも濃い時刻に。

 眠りを破って、あの悪夢がやってきて、茜音の体をがんじがらめにした。


 最初に聞こえたのは、蠅の羽音だった。

 ブーン、ブーン……耳障りな音が、茜音のすぐ耳もとで、聞こえてきた。

 あ、蝿がいる。やだな。

 そう思って、右手でふと払いのけようとしたとき、自分の右手に──手のひらと手の甲に両方に、びっしりと蝿がとまっていることに気づく。

 あっと驚いて、左手を見ると、その手のひらにも指先にも、手の甲にも、自分の皮膚が黒一色で埋め尽くされるほど、たくさんの蝿がとまって蠢いている。

 黒く、まるまると太った蝿が。

 手だけではない。

 腕にも、胴体にも、背中、顔、脚、首──身体じゅうのいたるところに。

 はっと気づくと、着ていたはずのパジャマは肌の上から消えていて、茜音は素裸だった。

 そうして、その素肌のうえを、蝿がうずうずと這い回る。まとわりつく。うるさく羽音をたてて飛び回る。

 手で払っても、払っても。大量の蝿が、体の表面を埋め尽くすほどに。

 さらには、耳から、口から、鼻から、目から──体じゅうの穴という穴から、黒びかりするたくさんの蝿が、自分の体の中に入り込もうとするのだった。

 普段は下着で隠されている場所や、体の皮膚の薄くてやわらかなところ、性器の小さな窪み。ありとあらゆる体の箇所から、容赦なく、夥しい数の蝿が体の中や奥にまで、侵入してこようとする。

 いやだ。怖い。たすけて。

 こんなの、いやだ、気持ち悪い、苦しい。たすけて。

 叫んで、救いをもとめようとすると、その口の中に、息を吸いこむ鼻の穴に、蝿がなだれこんでくる。

 夥しい数の蝿の群れが、まとわりつき、素裸の体を舐めまわし、無力なままの茜音の体を犯していく。

 高まる蝿の羽の音。

 高く、低く、ふたたび高く、うなる。

 聴覚から入り込んで、茜音の意識を侵食するように。

 いやだ。怖い。気持ち悪い。

 だれか、俺を、たすけて。

 たすけて。……


 ──……あかね……茜音……


 そのとき、誰かの声が、茜音の名前を呼んでくれた。


 ──茜音、……起きて、なあ、あかね……茜音……


 声は、茜音の名前を呼び続けた。

 黒い、おぞましい悪夢の中で、その声は、ひとすじの細い光になった。

 光の一筋は、体を覆い尽くそうとする蝿の黒い塊を、なぎはらって、茜音の意識に、ようやく、たどりついて──そして。


 そして、茜音の意識を、現実の世界へと引き戻してくれた。


「──っ!」

 何かを叫んで、茜音は、布団から飛び起きた。

 はあ、はあ、はあ、はあっ……

 呼吸が乱れている。鼓動が激しくて、息がうまく吸えない。

「あかね」

 はっと気づけば、理人が、茜音の顔をのぞきこんでいた。

 理人の瞳が、自分を見つめている。

 なんだか、泣き出してしまいそうな、ふたつの目。

「だいじょうぶか、茜音?」

 彼は、ベッドを抜け出して、茜音の布団のすぐそばにすわりこんでいた。

 夢のなかで苦しんでいた茜音を、どうやら、揺り起こそうとしてくれていたのか。

「あ……」

 声を出したら。

「お……俺」

 自分のものではないみたいに、かすれていた。

「すごく、うなされてたぞ、おまえ」

「うなされて……た?」

 ああ、あれは。あの、真っ黒なかんじ、は。

 夢──だった、……んだ。

「うん。……おまえ、うなされながら、布団のなかで、もがくみたいにしてて」

 まだ、夢の感触が、体のうえに残っている。

 動けない感覚。犯される、という恐怖。

「茜音、すごい、苦しそうだったから」

 そこまでいうと、理人は、ふいに左手をのばした。

 その手のひらで、茜音の頬を包んだ。

「涙、出てる」

 独り言のようにそう呟いて、親指で目元をぬぐってくれた。

 理人にそんなふうにされて初めて、茜音は、自分が泣いていたことに気づいた。

 あたたかくて、優しい指さき。

 豆電球の淡いオレンジのひかりが理人の寝室のなかに満ちている。そして、茜音の視野に映るものから、普段の色彩と現実感を奪っている。

 だから──なのか。

「り……りひと」

 溺れていくひとが、助けを求めるように。

「お……俺、怖かった、すごく……」

 目の前の理人の体にしがみついた。

 理人の肩、ネルのパジャマの感触。

 自分とは違う体温。自分とは異なる質感の体。

「……そうか」

 理人は、茜音の背に腕を回して──抱きしめてくれた。

 おずおずとした動きだったけれど。

 いったん抱きしめると、彼の腕につよく力がこもった。

 ぎゅっと。ぎゅうっと。

 ああ、理人の腕は、体は。

 夜の海の中に、頼りなく漂ってしまいそうな自分を、しっかりと繋ぎとめておいてくれる、確かな錨のようだ。

 理人に抱きしめられているうちに、悪夢の残滓が、意識の中から、かき消えていく。

 少しずつ、すこしずつ。嵐で荒れた海が、やさしく凪いでいくように。

 茜音の呼吸も、心臓の鼓動も。

 おだやかな速度へと、ゆるやかに戻っていく。

 理人の腕に抱きしめられていると、あの悪夢で汚された体と心を、きれいにしてもらえるような気がした。

 黒く、禍々しい感触が、肌のうえからも──すうっと消えていく。

「……理人」

「うん?」

「もうちょっと……このまま、こうしていてくれる?」

 思わず、そんな言葉が唇からすべり出た。

 そのセリフが、同性の友達に向けて差し出すにしては、かなり奇異なものである、と──茜音が意識するよりも前に。

 気持ちが言葉になって、ふっと唇からこぼれてしまったのだ。

 理人は、すこし黙りこんだ。

 茜音を抱きしめてくれている彼の顔は、茜音の肩越しにあって、どんな表情を浮かべているのかは、わからなかったけれど。

「……いいよ」

 沈黙のあと、理人が答えた。

 そして。

「いいけど」

 理人が口にしたのは。

「よければ……俺と一緒に寝るか?」

 茜音の問いよりも、もっと奇妙な誘いだった。

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