第7話 抱きしめられていると


「いいの?」

 そして、さらに奇妙なことには──理人のその言葉を聞いたとたん、茜音の心に、ぱっと明かりが灯ったみたいになったのだ。

「いいよ」

 抱きしめられていると。

「茜音が、そうしたいなら」

 理人の低い声が、彼の胸の中で響いているのがわかる。伝わってくる。

「うん。……そうしてほしい」

 茜音の答えを聞いて、理人は、抱擁を解いた。それから茜音の手をとった。

 そうして、彼のベッドのなかへと導いてくれた。──ふたりで、理人の体温が残るベッドのなかに、もぐりこんだ。

 理人は茜音を、茜音は理人を抱きしめている。

 パジャマの胸と胸があわさった。

 自分と同じ性を持つ彼の、自分とは異なる体。

 二十歳の男ふたりが、同じベッドのなかで、抱き合っているのは──すごくへん、なのは、わかっているけれど。

 それでも、茜音は、理人とふたりで、彼のベッドの中にいることが嬉しかった。

 とても、嬉しかった。

 しばらくふたりで、お互いにとって「寝心地のいいポジション」を探して、もぞもぞしたり、枕を譲り合ったりした結果。

 自然と、ふたりで横臥して向き合い、体の大きい理人の胸のあたりに、茜音が顔をうずめるような格好になった。

「茜音」

「ん?」

「……ああいう夢、頻繁に見るのか?」

 以前、茜音がこの部屋に泊まらせてもらった夜にも、二度ほど、こういうことが起こった。

 六月に一回と、七月に一回。

「そう、ね……」

 あのときも同じように悪夢にうなされて、心配そうな顔の理人に、起こしてもらった。

 それから、茜音が頼んだのか、理人が心配してか、どちらかは忘れたけれど。──茜音に貸してくれた布団のなかで、彼は一緒に眠ってくれたのだ。

 でも、理人のベッドのほうで一緒に眠るのは、これが初めて、だ。

「今はもう、そんなに見なくなってきたよ」

 そして、その悪夢を見ることになった「原因」が、いったい何であるか──を、理人は、たぶん、理解している。

 十六歳のあの初雪の日。

 理人に、ようやく、あのできごとを打ち明けることができたのだから。

「一ヶ月に、二、三回くらい、かな。……ああいう夢をみるの」

「俺が思ってたよりも、頻繁なんだな」

 理人の声は低い。

 音の階段を一段、とん、と降りたみたいに低い。そして、あたたかい。

「けど、前よりはマシになったんだ。ホント」

 以前は──今より数年前は、もっとひどかった。二日か三日に一度ぐらい、あの悪夢に苦しめられていた。

 近頃の「怖い夢」よりも、もっと具体的な、実際の体験がフラッシュバックしたような、恐ろしい悪夢を見ていたのだ。

 夜中に一人の部屋で、叫んで飛び起きると、たいてい、ひどい寝汗をかいていた。そのあと嘔吐したり、発熱してしまうこともあった。

「でも、さっきの茜音、あまりにも、苦しそうだったから……」

 そんなふうに、心の中の苦い思いを、絞り出すようにして告げる理人の声が、むしろ、ひどく苦しそうだったので。

「ごめん、理人」

 思わず茜音が謝ると。

「……なんで茜音が謝るんだよ?」

 今度は、思いがけないほど怒った声で、返された。

「だって、理人に、こうやって心配とか、迷惑かけてるから」

 茜音がそう口にしたとたん、抱きしめる理人の腕に、ふいに強い力がこもった。

「『ごめん』なんて、言うな、茜音」

 ぎゅっと。

「茜音はなにひとつ、悪いことなんか、ないんだから」

 ぎゅうっと。

 抱きしめてくれる。

 強い腕、その力。

「おまえ……」

 理人の声は、なぜか、すごく苦しげにかすれた。

「夢でうなされているとき、自分が、どんなセリフを言ってるのか、わかってるのか?」

「セリフ?」

「うん」

「え、と……俺が? 夢のなかで、……喋ってるの?」

「……そうだよ。うなされているとき、おまえ、必ず寝言を言うんだ」

「なんて?」

 そう尋ねたのだけれど。

「なんて言ってるの、俺?」

 理人は、突然、答えてくれなくなった。

「ねえ、理人?」

 自分を抱きしめてくれる体が震えていて、そのとき、ようやく茜音は、理人が泣いていることに気づいた。

 嗚咽を噛み殺すのに失敗して、彼は体を震わせて──そして、涙を流しているのだ。

 理人自身が、理不尽にはげしく痛めつけられたように。

「……理人」

 肩越しに、彼が噛み殺しきれなかった嗚咽の声を聴きながら。

 言葉が見つからなくて、茜音は理人の名前を呼んだ。

「ごめん、理人」

「……おまえが謝るな」

 泣いている声で、理人は、ムキになっている。

「だって……」

 だって、おまえが泣いてるんだもん。

 そう言いたかったけれど。

「茜音は、謝るな」

「……うん」

 茜音は、黙って目をつぶった。

 そうして、理人の体温を感じていた。

 理人の体のなかで、心臓が動いていて、肺が呼吸のために働いていて。

 彼の体に生命がある。自分と同じように。

 理人が、茜音の体を抱きしめてきた。

 痛いくらいに強く。

 まるで、彼自身の痛みを、どうにかしたいように。

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