第8話 ……気まずい。

     6


 次に茜音の目が覚めたときには、部屋の中は、だいぶ明るくなっていた。

 足元の掃き出し窓の遮光カーテンが、半分だけひらかれている。そこから白いレースのカーテン越しに、朝の光が差しこんできていたのだ。

 理人のベッドで寝ていたのは、自分だけだった。

 彼はすでに起きているらしい。なにやら物音が聞こえてくる。

 ──気まずい。

 かなり、気まずい。

 夜中、悪夢にうなされていたところを起こしてもらい、それだけなら、まだしも──抱きしめてほしい、とねだり、実際に抱きしめて眠ってもらった、というのは。

 どうにもこうにも、気まずい。

 ……気まずい、けれど。

 まあ、しかたがない。いつまでも、このベッドにいるわけにもいかないので。

「……おはよー」

 スリッパをぱたぱたさせて、キッチンへ行くと、理人が皿を洗っているところだった。

 つけっぱなしのテレビからは朝のニュースが流れ、南向きに窓が取られたリビングには、寝室よりも、もっと明るい朝の光が満ちていた。

「おはよう」

 すでにきちんと身支度をすませた理人が、まるで何事もなかったように顔を向けてくれたので、すこし、気まずさが薄められた。

 どーでもいいけど。理人って、朝から無駄にイケメンだな。

「理人、何時から起きてたの?」

 もしかしたら、理人のほうも。

「七時ごろ」

 やっぱり気恥ずかしくて、「何事もなかった」ふりをしてくれているのかもしれない。

「ごめん。……俺、寝坊したね」

「いや、茜音はゆっくりしてていいよ。……俺は、行かなきゃいけないから、出るけど」

「何時に出んの?」

「んー、八時十分ぐらいかな。一限あるから」

「じゃあ、マジでもうすぐ、出なきゃ、なんだな」

 ほんの数時間前、まだ夜が明ける前の時刻に。

 悪夢にうなされた茜音を、抱きしめてくれたことを、それから一緒にベッドで眠ったことを、理人だって覚えていないわけがないのだが。

 明るい朝のひかりに満ちた部屋で、普通の顔と、普通の会話で接してくれている。

 それはおそらく、理人の優しさだった。

 いつだって、彼は、そういうさりげない優しさを示してくれた。──そういう友達だった。

「テーブルの上に、茜音の朝ごはん、置いといたから」

「えー、嬉しい。ホントに?」

 昨日ふたりで、二次関数だの、形式主語構文だのを勉強した食卓のうえに、白い皿がある。

 柿が数切れ、バナナが半分、ロールパンとハム、それからミニトマトとレタス。一枚の皿のうえに、きちんと切り分けられた、あざやかな食べ物が盛りつけられている。

「わー、キレイな朝ごはん」

「ただ切って、並べただけだろ」

 理人の声は、ぶっきらぼうだ。……照れているのか。

「けど、めっちゃ嬉しい」

「インスタントでよけりゃ、コーヒーもあるから」

「ありがとう。もらってもいい?」

「いいよ。セルフでやって」

 ありがたく朝食を食べていると、洗い物を終えた理人が、テーブルの上に、ぽん、と小さなものを置いて、それを茜音のほうへ滑らせるようにした。

「俺、先に出ないとならないから。……茜音、これ、使って」

 このマンションのスペアキーだった。

 「トイ・ストーリー」の、リトルグリーンメンのキーホルダーがついている。

「茜音が出ていくとき、これで鍵をかけて。……そんで、郵便受けの中に、放り込んでいってくれ」

「あ、うん。わかった。……そうする」

 以前、泊まったときにも、同じことをしたことがあった。

 そのときも、他人に部屋の鍵を預けるなんて、理人は、すごい信頼を俺に渡してくれているんだな、と思った。

 ──「合鍵」というものに関して、茜音には、ものすごいトラウマがある。あの悪夢に関連しているのだが、いまだに思い出すと、心が苦しくなるくらいの。

 だが、今、この朝の光に満ちたテーブルの上では、その苦しい記憶に、気持ちが引っぱられずにすんだ。……少しずつ、自分の心の傷は、癒えているんだな、と思う。少しずつだけど、でも、確かに。

 出かける時間が迫っているらしく、理人は、慌ただしく、オーバーを着込みはじめる。

「あ、それから茜音」

「うん?」

「来週の時間を決めとこうぜ。次の水曜日の五時半でいいか?」

「いいよ」

「えーと、十月の……」

 理人はスマホに、何やら、その予定を入力している。

 その横顔に、茜音は言った。

「たぶんそれが、最後の授業になると思う」

「あ。……そうか」

「うん。高認の本番は、十一月のアタマだから」

「そうだな」

「今まで、お世話になりました。……ほんとうにありがとう」

 椅子に座ったままだったが、頭を下げた。

「やだな、改まるなよ」

 理人が照れた。

「うん、そうだけど。でも、一度、ちゃんとね。お礼を言いたかったんだ、理人に」

「……ん」

「理人が助けてくれなかったら、俺、とても、今の──なんていうか、『受験できるような気持ちになれる』とこまで、来られなかったと思うから」

「……ん」

 本格的に照れてしまったのか。

 理人は、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、短くうなずいてみせただけだった。

 そして、彼の顔が真っ赤になっている。

 顔だけじゃなくて、耳まで赤く、染まっている。

「あの、さ、理人。……もう行かないと、ダメじゃない?」

「あ……あ、ああ、そうか」

 はっと我に返ったような顔をして、理人は、着こんだオーバーの上にマフラーを巻いた。

「じゃあな、茜音」

「うん」

「来週水曜、五時半な」

「うん、わかった。そのときにね」

 リュックを持って、急いで玄関へと向かう理人のうしろにくっついて、茜音も玄関まで見送りにいった。

 たたきでスニーカーを履いた理人が、茜音の方をふりむいた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 どーでもいいけど、こんなときでも、無駄にイケメンだな、理人は──と、さっき思ったことを、再び思った。

 そんなやりとりで、理人を送り出したあと。

 ドアの鍵を内側からかけて、茜音はふたたび食卓のテーブルへと戻った。

 理人が用意してくれた朝ごはんを、まだ、いくらも食べていなかったので「ごはんごはん」と思って、箸を再び、取り上げた──のだが。

 そのとき、あっ、と気づいた。

 理人のスマホが、テーブルの上に置いたままになっている。

 そういえば、出がけに、来週の予定を話し合って──あいつ、スマホのスケジュール帳に入力してて。

 そのあと、俺が、改まってお礼を言ったら、理人、めっちゃ照れちゃって、顔、真っ赤になって。

 そんで、スマホ、忘れてやんの。

 ──どうしよう。


 今から、理人を追いかければいい。

 ……いや、でも、俺まだ、パジャマ姿だし。

 んーと、けど。

 ワンチャン、エレベーターに乗るとこ、ぐらいまでなら……パジャマだけど、この格好で行っちゃっても、いいんじゃないか?

 〇・五秒ぐらいで、そう思考をめぐらせると、茜音は、理人のスマホをひっつかんで、玄関へと走って、たたきの上のつっかけを履こうとした。

 そのとき、玄関のドアノブが、がちゃがちゃ、と動きはじめた。

 ドアの向こうから、誰かが、鍵を開けようとしているのだ──と、茜音が気づくのと同時に、理人がそのドアをあけた。

「茜音」

「理人」

 狭いマンションのたたきで。

 ちょうどふたりが鉢合わせした。

 スマホを忘れて取りに戻った理人と、スマホを届けようとした茜音とが。

 至近距離で向かい合った。

 理人のほうが背が高いから、理人は茜音を見下ろして。

 茜音は理人を見上げて。

「……茜音」

 オーバーの腕に抱き寄せられたのと、理人の唇が舞い降りてきたのは、ほとんど同時だった。その唇は、正しい軌跡を描いて、茜音の唇のうえに重ねられた。

 あまく熟した果物が、ぽとりと枝から落ちるように。

 時が満ちたので、自然の摂理として、そうなった──そんな、動きで。

 それは、無理に強いられたキスではなかった。

 なぜなら、まぶたを閉じたのも、本能的に、唇の角度をずらしたのも茜音のほうだったから。

 もっと深く。唇が合わさるように。

 そして、その茜音の動きに、理人も正確にこたえた。

 あたたかな舌が、茜音の唇をそっとこすったから、ごく自然に茜音も唇をひらいた。

 ふくらんだ蕾が、時を得てうつくしくひらいて、花として咲くように。

 誘われるままに、舌が口のなかに入ってきて、茜音の舌をとらえた。

 一回、二回、三回。……理人は、すこしだけ、茜音の舌と遊んでくれた。

 それだけで体のなかに、音楽を流されたようになった。

 もっと、と思った。

 もっと、ほしい。

 ──けれど茜音が、そう思った瞬間、理人がふいに唇を引き剥がして、そして、あっけなくキスは終わった。

「ご……ごめん」

 キスのあと、理人の唇から出た第一声は、そんなものだった。

「ごめん。ごめんな茜音」

 ものすごく焦った顔つきと声で、理人は、そう言うと。

 届けようとして、茜音が手にしていたスマホも受け取らずに、くるりと踵を返した。


 ──え?


 あっけにとられている隙に、理人は、玄関のドアをさっとあけて、再び出ていってしまった。

 一陣の風のように。

 「追いかければよかった」と茜音が思ったのは、もっとずっと、あとのことで。

 そのときは、ただ呆然として、閉じられる玄関のドアと、出ていく理人のオーバーの背中を見つめていた。

 

 今の……。

 ──いまのって。


 なんだった……んだ?


 手に、理人のスマホを持ったまま、茜音は、玄関の床の上に、へなへなとすわりこんだ。

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