星空の帰り道
第9話 集中、できない。
集中、できない。
一人暮らしの自分のアパートで、茜音は、頭を抱えている。
高卒認定試験の本番まで、あと一週間しかない。
さすがに一週間前だから、バイトのシフトも返上して、勉強に集中するつもりだったのに。
……やば。
ホントに、俺、勉強に集中できてない。
問題集を解いていても。ノートにシャープペンシルを走らせていても。
心は、ふとした瞬間に文字の上から離れて、ふわふわ、勝手にさまよいはじめる。
風に吹かれる、頼りない木の葉のように。──ひらりと木の枝から奪われて、風の動きのままに翻弄されて。
そして、結局は、あの瞬間の記憶に行きつく。
あの瞬間──理人に、玄関で。
キス、されたときの、こと。
いったい、アレは──あのキスは、なんだったのだろう?
抱き寄せられる直前に、名前を呼ばれたこと。
「茜音」と自分を呼んだ理人の声、その腕の強さ。
唇の温度と感触、やわらかさと硬さ。
口のなかを探られたこと、あたたかな舌の動き。
思わず目を閉じたこと。──キスに、夢中になったこと。
不思議だったのは。
理人からキスされて、ものすごく驚いたのに、……まったく、嫌じゃなかったこと、だ。
「嫌じゃなかった」──いや、違うな。
それどころか、あの瞬間、茜音は、すごく、嬉しかったのだ。
なぜか、「やっと」とか、「ようやく」っていう気持ちさえ、胸の中に広がっていった。待ち望んでいたものが、ようやく与えられた、という心の動きだった。
理人の唇の感触や舌の動きを感じるたびに、身体中に、あまいおののきが走った。からまされた舌を、きゅっ、と吸われたときには、どうにかなりそうだ、と思った。
どうにかなりそう──きもちが、よくて。
けれど、「もっと」と、思った瞬間、理人は、いきなり唇を離してしまった。
口づけてきたときの、水が上から下に流れるような自然な動きとは真逆の、乱暴な動作。
まるで、茜音の体をむりやり引き剥がすような、そんな感じの。
「ごめん」という言葉を、茜音に二回、投げかけて、慌てて理人は立ち去った。
理人は、はっきりと、「後悔している」という表情をしていた。
目に焼きつくように覚えている。そのとき、自分は、その理人の表情のせいで、傷ついたような気持ちになったから。
有頂天になっていたところを、ぴしゃりとはねのけられて。
どん底に突き落とされたような──そんな気持ちになったから。
唇を離された直後には、膝から力が抜けて、玄関にすわりこんでしまった。
立っていられなかった。頭がぼうっとして、体が、熱でとろけたチョコレートみたいに、くにゃくにゃな感じで。
あのあと、理人のマンションを出たのは、たぶん、一時間ぐらい経過してからのことだ。
頭の中がとっちらかっていて、自分がちゃんと、あのマンションを出てこられたことが、いま思い返してみても不思議なぐらいだ。
使わせてもらった布団をたたんで、食べた朝食の皿を洗って、水切りに伏せて。
それから、理人が忘れたスマホを、食卓の中央に置いた。
家に帰ってきた彼が、すぐに、見つけられるように。
渡されたスペアキーを使って鍵をかけ、理人に言われたとおりメールボックスのなかに、それを入れた。
あの日、家に戻ってから、理人はどうしただろう。
俺がテーブルの上に置いたスマホを見つけて。メールボックスのなかの鍵を見て。
どう感じただろう。
──それから、あのキスのことを。そして、俺のことを。
どんなふうに、思っているだろう。
考え出したら、ひとりの部屋で、「うわああ」と叫びそうになる。
いったい、アレは、なんだったのだろう?
アレは。──あのキス、は。
理人は、どうして(しかも、突然)、あんなことをしたのか?
そして、俺は。
俺は。
あのできごとのあと、どんな顔をして、理人に会えばいい?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます