第23話 眠れない夜


      4


 ──また、眠れなくなった。

 ビールを飲み終えた俊一が自室に引き上げたあと、理人は風呂を使い、自分の部屋のベッドにもぐりこんだ。

 苦しい寝返りをうつと、夜が深くなる。

 男二人で寝るには絶対に狭すぎるこのベッドで、茜音とふたりで眠ったのは、ほんの一週間前のことだ。

 その記憶が、体の上に生々しくよみがえって、夜になると理人を悩ませる。

 明け方、悪夢にうなされていた茜音を起こすと、彼はあまりにも怯えて震えていた。茜音のほうから理人の体に抱きついてきたほどだったのだ。

 だから思わず、一緒に眠ろうか、と誘った。

 そうしないと、傷ついた茜音が、再び悪夢の中に閉じ込められてしまいそうな気がして。

 自分のベッドのほうに導いたのは、なんとなく、だけれど──せめて、それは、やめておけばよかった、と思う。

 こんなふうに生々しく、このベッドで、茜音の体を思い出してしまうなら。

 「一緒に眠ろうか」と言った瞬間から、自覚はあった。今の俺の台詞は、友達としての境界線を踏みこえている、と。

 けれど茜音のほうは、何のためらいも見せずに、すんなりとその誘いに乗った。理人が導くままに、このベッドの中に入ってきて、その体を理人に寄り添わせた。

 傷ついて怯えた雛鳥が、親鳥のぬくもりを求めるように。ひとかけらの怯えも疑いも抱かずに。

 ああ、こいつは。

 信じているんだな、と思った。──俺のことを。

 自分を傷つける存在ではないと、すこしの疑念も持たずに、理人を信頼してくれている。

 それは、理人が抱いている感情を知らないから、だ。……だから、こんなにたやすく、茜音は、理人の腕の中に飛び込んでくる。

 理人の腕のなかで、茜音は再び眠りに落ちた。その健康的な寝息を聞きながら、理人のほうは、ろくすっぽ眠れやしなかった。さまざまな思いが胸を去来していた。

 茜音の信頼を、裏切ったらダメだ、と思った。絶対にダメだ、と何度自分に言い聞かせたかわからない言葉を、あのときも自分に言い聞かせた。

 そして、その言葉は、ちゃんと功を奏していたと思う。──あの日、明け方の時点では。

 それが、どうして。

 そのたった数時間後に、あんなことを、俺は。

 ──玄関さきの、あの朝のキス。

 家を出て、エレベーターのところまで行ってから、スマホを忘れたことに気づいた。取りに帰ろうと思って、走って家まで戻って。鍵をあけて、ドアもあけて。

 そうしたら、すぐ目の前に、理人が貸した、紺と白のストライプのパジャマを着た茜音が立っていた。

 華奢な体に、自分のパジャマはぶかぶかだった。肩が落ちていて、袖口が何度か折られている。

 その姿に、心のどこかを、はっと突かれた。

 茜音、と彼を呼んだ声と、理人、と彼が呼んだ声が、ぶつかった。

 二人で向かい合わせに立っていた。ものすごく至近距離だった。

 茜音のふたつの目が、自分を見上げていて、まっすぐに理人のことを見ていた。

 なにひとつ、警戒していない瞳。とても無防備で、純粋な。

 純粋な──

 そう思った瞬間、魔法にかけられた。

 ──茜音。

 彼の名前を呼ぶ自分の声も、魔法の中で聞いたみたいだった。

 どんな思考を働かせるよりもさきに、自分の体が、勝手に動いた。普段の自分は、理性で制御する力が強いほうだと、自負できているのに、その瞬間だけは、頭の中で考えるよりも早く、理人の腕が、足が、体が動いたのだ。

 パジャマ姿の茜音を、腕に閉じこめた。

 つぼみが花としてひらく直前、上をむくように、茜音が顔を上向かせた。理人の目を至近距離でとらえて、そして、彼はまぶたを閉じたのだ。

 なにかを待つように。

 ──口づけずにはいられなかった。そのくちびるに。

 もしかしたら最後まで残っていたかもしれない理性が、茜音の目を閉じる動きで、きれいにかき消された。

 酩酊しそうだ、と思った。

 体の芯からくらくらして、もっとほしくて、頭がバカになりそうなほど。

 茜音の手が動いて、理人に肩と背に、その手がかけられた。

 そうやって彼は、自分の顔の角度を、正確な位置へと合わせてきたのだ。──もっとキスが、深くなるように。

 それに気づいた瞬間、強烈な光が自分の内側に満ちた。目もくらみそうなほどの、まぶしいひかり。

 もう何もまともなことが考えられなくなった。

 舌でなぞると、たやすくひらいた唇。誘うように。

 だからその誘いに、乗った。

 探って、からめて、吸って。──受け取ったあまい蜜にうっとりした。

 ああ。茜音とキスするのって、こんな感じ、なのか。

 ずっと想像していた、茜音とキスしたらどんな感じだろうと、何度も想像していた、でも、こんな、夢の中にいるみたいに、天国にいるみたいに、幸福なのだと思っていなかった。

 ──けれども、そのあたりで、ふいに。

 ほんの数時間前の明け方、悪夢でうなされていた茜音の声が、耳によみがえった。

 苦しげな息を吐きながら、夢の中でさえ、涙を流しながら、茜音が繰り返していた言葉を。

 俺は。

 茜音の気持ちを、確かめてない。

 ──何をしてるんだ、俺は。

 唇を引きはがした。

 激しく、暗い後悔が、胸に押し寄せた。

 どうして俺は、自分の気持ちを、行動を、暴走させた?

 傷ついたことがある茜音だからこそ、自分が彼を傷つけてはいけないのだと ──あれほど自分に言い聞かせていたのに、俺は。

 俺は。


 うなされているとき。

 悪夢のなかで、どんな寝言を繰り返しているか、自分でわかっているのか、と茜音に尋ねたら、茜音は「俺が夢の中で、喋ってるの?」と聞き返してきた。

 ──なんて? なんて言ってるの、俺?

 「わからない」から、「教えて」という、小学生みたいな無邪気な言葉をかえされて、理人は、答えられなくなった。

 ──ねえ、理人?

 茜音の問いが続いて、胸が詰まって、耐えきれなくなって、理人は泣いた。

 涙があふれて、答えられなくなって。

 茜音を抱きしめる以外、なにもできなくなった。

 ぎゅっと。ぎゅうっと。


 悪夢のなかでもがいていた茜音は、「ごめんなさい」と「もう、やめて」を繰り返していたのだ。


 ごめんなさい、もう、やめて。

 お願いだから、もう、しないで。

 やめて、やめて、お願いだから。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


 ──深い傷を負った茜音だから、絶対に傷つけてはならないと、あれほど俺は、自分で自分に誓っていたのに。

 玄関で、茜音と鉢合わせしたあの瞬間、友達以上の行動を、我慢できなかった。

 自分は、ずっと前から、茜音に……性的な欲求を、はっきりと抱いている。このまま彼と友だち付き合いをしていたら、いつか、その欲求が茜音を傷つけてしまうだろうと思う。

 ……だから、もう茜音には、会わないほうがいい。俺には、会う資格がない。

 俺がフェイドアウトしようとしたら、いっときは、茜音は悲しむかもしれないけれど。

 結局は、そのほうが、いい。

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