第23話 眠れない夜
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──また、眠れなくなった。
ビールを飲み終えた俊一が自室に引き上げたあと、理人は風呂を使い、自分の部屋のベッドにもぐりこんだ。
苦しい寝返りをうつと、夜が深くなる。
男二人で寝るには絶対に狭すぎるこのベッドで、茜音とふたりで眠ったのは、ほんの一週間前のことだ。
その記憶が、体の上に生々しくよみがえって、夜になると理人を悩ませる。
明け方、悪夢にうなされていた茜音を起こすと、彼はあまりにも怯えて震えていた。茜音のほうから理人の体に抱きついてきたほどだったのだ。
だから思わず、一緒に眠ろうか、と誘った。
そうしないと、傷ついた茜音が、再び悪夢の中に閉じ込められてしまいそうな気がして。
自分のベッドのほうに導いたのは、なんとなく、だけれど──せめて、それは、やめておけばよかった、と思う。
こんなふうに生々しく、このベッドで、茜音の体を思い出してしまうなら。
「一緒に眠ろうか」と言った瞬間から、自覚はあった。今の俺の台詞は、友達としての境界線を踏みこえている、と。
けれど茜音のほうは、何のためらいも見せずに、すんなりとその誘いに乗った。理人が導くままに、このベッドの中に入ってきて、その体を理人に寄り添わせた。
傷ついて怯えた雛鳥が、親鳥のぬくもりを求めるように。ひとかけらの怯えも疑いも抱かずに。
ああ、こいつは。
信じているんだな、と思った。──俺のことを。
自分を傷つける存在ではないと、すこしの疑念も持たずに、理人を信頼してくれている。
それは、理人が抱いている感情を知らないから、だ。……だから、こんなにたやすく、茜音は、理人の腕の中に飛び込んでくる。
理人の腕のなかで、茜音は再び眠りに落ちた。その健康的な寝息を聞きながら、理人のほうは、ろくすっぽ眠れやしなかった。さまざまな思いが胸を去来していた。
茜音の信頼を、裏切ったらダメだ、と思った。絶対にダメだ、と何度自分に言い聞かせたかわからない言葉を、あのときも自分に言い聞かせた。
そして、その言葉は、ちゃんと功を奏していたと思う。──あの日、明け方の時点では。
それが、どうして。
そのたった数時間後に、あんなことを、俺は。
──玄関さきの、あの朝のキス。
家を出て、エレベーターのところまで行ってから、スマホを忘れたことに気づいた。取りに帰ろうと思って、走って家まで戻って。鍵をあけて、ドアもあけて。
そうしたら、すぐ目の前に、理人が貸した、紺と白のストライプのパジャマを着た茜音が立っていた。
華奢な体に、自分のパジャマはぶかぶかだった。肩が落ちていて、袖口が何度か折られている。
その姿に、心のどこかを、はっと突かれた。
茜音、と彼を呼んだ声と、理人、と彼が呼んだ声が、ぶつかった。
二人で向かい合わせに立っていた。ものすごく至近距離だった。
茜音のふたつの目が、自分を見上げていて、まっすぐに理人のことを見ていた。
なにひとつ、警戒していない瞳。とても無防備で、純粋な。
純粋な──
そう思った瞬間、魔法にかけられた。
──茜音。
彼の名前を呼ぶ自分の声も、魔法の中で聞いたみたいだった。
どんな思考を働かせるよりもさきに、自分の体が、勝手に動いた。普段の自分は、理性で制御する力が強いほうだと、自負できているのに、その瞬間だけは、頭の中で考えるよりも早く、理人の腕が、足が、体が動いたのだ。
パジャマ姿の茜音を、腕に閉じこめた。
つぼみが花としてひらく直前、上をむくように、茜音が顔を上向かせた。理人の目を至近距離でとらえて、そして、彼はまぶたを閉じたのだ。
なにかを待つように。
──口づけずにはいられなかった。そのくちびるに。
もしかしたら最後まで残っていたかもしれない理性が、茜音の目を閉じる動きで、きれいにかき消された。
酩酊しそうだ、と思った。
体の芯からくらくらして、もっとほしくて、頭がバカになりそうなほど。
茜音の手が動いて、理人に肩と背に、その手がかけられた。
そうやって彼は、自分の顔の角度を、正確な位置へと合わせてきたのだ。──もっとキスが、深くなるように。
それに気づいた瞬間、強烈な光が自分の内側に満ちた。目もくらみそうなほどの、まぶしいひかり。
もう何もまともなことが考えられなくなった。
舌でなぞると、たやすくひらいた唇。誘うように。
だからその誘いに、乗った。
探って、からめて、吸って。──受け取ったあまい蜜にうっとりした。
ああ。茜音とキスするのって、こんな感じ、なのか。
ずっと想像していた、茜音とキスしたらどんな感じだろうと、何度も想像していた、でも、こんな、夢の中にいるみたいに、天国にいるみたいに、幸福なのだと思っていなかった。
──けれども、そのあたりで、ふいに。
ほんの数時間前の明け方、悪夢でうなされていた茜音の声が、耳によみがえった。
苦しげな息を吐きながら、夢の中でさえ、涙を流しながら、茜音が繰り返していた言葉を。
俺は。
茜音の気持ちを、確かめてない。
──何をしてるんだ、俺は。
唇を引きはがした。
激しく、暗い後悔が、胸に押し寄せた。
どうして俺は、自分の気持ちを、行動を、暴走させた?
傷ついたことがある茜音だからこそ、自分が彼を傷つけてはいけないのだと ──あれほど自分に言い聞かせていたのに、俺は。
俺は。
うなされているとき。
悪夢のなかで、どんな寝言を繰り返しているか、自分でわかっているのか、と茜音に尋ねたら、茜音は「俺が夢の中で、喋ってるの?」と聞き返してきた。
──なんて? なんて言ってるの、俺?
「わからない」から、「教えて」という、小学生みたいな無邪気な言葉をかえされて、理人は、答えられなくなった。
──ねえ、理人?
茜音の問いが続いて、胸が詰まって、耐えきれなくなって、理人は泣いた。
涙があふれて、答えられなくなって。
茜音を抱きしめる以外、なにもできなくなった。
ぎゅっと。ぎゅうっと。
悪夢のなかでもがいていた茜音は、「ごめんなさい」と「もう、やめて」を繰り返していたのだ。
ごめんなさい、もう、やめて。
お願いだから、もう、しないで。
やめて、やめて、お願いだから。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
──深い傷を負った茜音だから、絶対に傷つけてはならないと、あれほど俺は、自分で自分に誓っていたのに。
玄関で、茜音と鉢合わせしたあの瞬間、友達以上の行動を、我慢できなかった。
自分は、ずっと前から、茜音に……性的な欲求を、はっきりと抱いている。このまま彼と友だち付き合いをしていたら、いつか、その欲求が茜音を傷つけてしまうだろうと思う。
……だから、もう茜音には、会わないほうがいい。俺には、会う資格がない。
俺がフェイドアウトしようとしたら、いっときは、茜音は悲しむかもしれないけれど。
結局は、そのほうが、いい。
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