第24話 指さきの記憶(前)

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「柏木茜音といいます。よろしくお願いします」

 中学の教室で、担任の教師から促されて、クラスメイトたちの前で挨拶をした茜音は、なんとも居心地が悪そうな顔をしていた。

 それもそのはず。茜音が北海道の比宇可町に引っ越してきたのは、中学二年の十一月という、ひどく半端な時期だった。

 そのうえ、制服が間に合わなかったとかで、転校してきたばかりの一週間ほどの間、彼は、以前にいた埼玉の中学の制服を着ていたのだ。

 男子は詰襟の学生服、女子は紺のブレザー、というのが比宇可中学の制服だったのだが、茜音だけ、紺のブレザーにグレイのズボン、といういでたちだった。

 おまけに、筆箱だの学用品だのの記名部分を見ると、苗字のところが、黒マジックの二重線で雑に消されていて、その横に「柏木」という姓が(どうやら茜音自身のものらしい文字で)書き足されている。

 彼の姓に変更があったこと、そのことについて、茜音の親は、あまりケアをしていないらしいこと。

 そういう「家庭の事情」が、転校初日から、なんとなく透けて見えた。

 ……危なっかしいな、こいつ。

 なんか、トラブルに巻き込まれなきゃいいけど。

 理人は、そんなふうに考えながら、転校生の整った顔を見ていた。

 田舎町の狭い人間関係の中で、茜音の抱えていた「家庭の事情」は、わりとすぐに知れ渡った。

 茜音の母は、高校卒業までこの比宇可の町で育ったこと、その後すぐに、就職のために上京したこと。現在はシングルマザーで、一人息子の茜音を育てていること、埼玉から比宇可に戻ってきたのは、茜音の母方の祖母がこの町にいるからであること。

 その祖母は体が弱く、高齢者施設で過ごしていて、茜音と母親は、二人だけで、町営のアパートに住んでいるようだ、ということ。

 そのこともあってか──茜音の母は、息子のことを、わりと「ほったらかし」にしていること。

 大人の目が行き届かない子ども。

 華奢な体つきの、夢みるような瞳の転校生。

 危なっかしいな、こいつ、と、茜音の転校初日に抱いた理人の感想が、現実のものになったのは、それから一ヶ月も経たないうちのことだったと思う。

 比宇可の町が、その年の根雪に覆われた日のことだ。



 十一月になると、北国の比宇可では、雪が降ったり止んだりの日が何日か続いて、あるときその雪が、降りやまなくなる日がくる。

 そうやって降り積もった雪は、町全体を真っ白に覆い、春までずっと溶けることない。それが「根雪」だ。

 ──その根雪が積もった日。

 生徒会の用事が長引いて、理人が帰宅しようとしたときには、校舎には、他の生徒たちはもうほとんど残っていないはずだった。

 だが、そのとき、理人の目は、中学の昇降口から出ていこうとする寒そうな制服姿をとらえた。

 寒そうな、というのは、彼が、制服の上に、オーバーとかジャケットとかの外套を何も着ていなかったからだ。

 冬の早い日暮れのせいで、まだ六時過ぎだったと思うが、あたりにはすっかり夜のとばりが降りている。水銀灯の白い光が積もった雪を冴え冴えと照らし、その上、しんしんと雪が降り続けている。

「柏木?」

 思わず、その背中を呼び止めた。

 茜音と二人だけで会話を交わしたのは、そのときが、たぶん最初だ。

「どうしたの、柏木?」

「あ……」

 白い顔がふりむいた。

 花びらのうすい、可憐な花みたいだった。

「柏木、今から、そんな格好で帰るの?」

 思わず詰問するような口調になってしまったのは、こんな根雪が降り積もるような夜の北海道の気温は、確実に零下を切っているからだ。

 なんの防寒具もなしに、制服を着ただけの格好で歩いて帰宅するのは、あまりにも無謀な行為だった。

「……うん」

 口ごもった声で、茜音が答えた。

 怯えているような、不安な表情。

「柏木、服は? オーバーとか、そういうの」

「……着れれ、ない」

 舌足らずみたいな答え方だったが、その声が震えているのは。

「着れれ……着られないって、柏木、どういう意味?」

 寒さのせいとか、じゃなく。

「それが」

 泣きそうになっているのを、茜音が、必死で我慢しているから——だった。

「……楠田、来てくれる?」

 細い声で答えると、茜音は、ふいに理人のオーバーの腕をつかんだ。

 その動作は、乱暴ではなかった。けれど、せっぱつまっていた。

 まるで、溺れるひとが、手を伸ばして、必死に何かにつかまろうとするように。

 どきん、と、理人の心臓が変なふうに脈打った。

 はっとして茜音の顔を見ると、すがりつくような目が、理人を見ていた。

 まずい、と思った。

 まずい。……だって、こいつ。

 反射的にそう考えた瞬間、胸の中に、急速に熱いものがせりあがってきて、もう一度胸が、どきん、と強く拍動した。……覚えているかぎり、そんなふうに理人の心臓が波打ったのは、たぶん、それまでの人生で初めてのことだ。

 ……泣かせたくない。

「わかった。行こう」

 泣かせたくない。こいつを。

 暗くなっていた校舎を、ふたりで走った。

 誰もいない。上履きの運動靴の底がリノリウムの床をこする、キュキュッという音が、静まり返った廊下に響く。

 茜音につれていかれたのは、二年生の生徒たちが主に使っている二階の水飲み場だった。

 古ぼけた非常灯の光と、窓からの雪あかりだけが頼りの薄暗い視野の中で、ステンレスの流しのうえに、一メートルほどの黒いものがべったりと横たわっている。

 最初、理人には、それが何であるのか、よくわからなかったのだが。

「……柏木、おまえ、これ」

 それは、一着の黒いアノラックだった。──おそらく、茜音の。

 思わず手でつかんだら、冷たい水を含んで、ずっしりと重い。滴り落ちた水が、理人の手を濡らしたほどだった。

 流しの上に置いて、水道の水を上から浴びせかけたのだろう。中綿の部分にまで、ぐっしょりと水がしみこんでしまっている。

「誰が……やったんだ?」

 思わず、そんな言葉が理人の唇からこぼれた。

 それは問いの形をとっていたけれど、問いではない。理人のなかに生まれた強い憤りが、言葉になって出てきたのだ。

 悪ノリして、とか、ちょっとした悪戯の延長線上のような軽い気持ちで、なされた行為かもしれなかったが、やられたほうにしてみれば、打ちのめされるに十分なほどの悪意だ。

「……柏木、誰がこんなこと、したの?」

「わかんない」

「心あたりとか、は?」

「……もしかしたら、ヤマギシとか、ムラカミとか、かな」

 茜音が名前をあげたのは、サッカー部の連中だった。聞けば、この数日前にも、彼らに、手袋や鞄をゴミ箱の中に入れられたのだという。

「そのときは、どうしてヤマギシたちがやったって、わかったんだ?」

「何人かの女子が、それを見てて、教えてくれたんだ。……ロッカーから鞄がなくなってて、必死に探してたら、『さっき、サッカー部の連中が、げらげら笑いながら、なんか、ゴミ箱に捨ててたみたいだ』って」

「……」

「あわててゴミ箱の中を覗いたら、ゴミの一番うえに、鞄が投げ入れてあって……とりあえず見つかったから、それを拾って帰ったんだけど……」

 そこまで言って、茜音はうつむいた。

 その華奢な肩を見ていたら、静かな、けれど揺るぎないほど強い感情が、理人のなかに湧き上がってきた。

「柏木。……この状況、先生たちを呼んできて、見せよう」

「え? せ──先生に?」

「そうだよ。ていうか、鞄を捨てられたとき、即座に、先生たちに言ってもよかったと思う。見ていた女子がいたんなら、なおさら」

「え、けど」

 茜音の白い顔が、窓からの雪あかりで照らされている。──泣き出しそうに、ゆがんで。

「そんな──そんなの、いいよ」

「なんで?」

「だって……先生にチクったら、嫌がらせがエスカレートしそうだし」

「だから鞄のときは、黙っていようと思ったのか?」

「ん……うん」

「でも、そうやって柏木が黙っちゃったからこそ、こうやって、おまえの服に水をぶっかけるぐらいまで、やることがエスカレートした、とも言えるだろ?」

 胸の中に生まれた強い感情のせいで、理人の語気は、はからずも荒くなってしまう。決して、そんなことをしたいわけではないのに。

 あ、と思ったときには、遅かった。

 茜音の両目から、みるみるうちに透明な水分がもりあがってきて、ぽろり、とこぼれた。

 そして、いったんこぼれてしまうと。──もう、止められなくなってみたいだった。

 あとから、あとから。あふれて、こぼれて。

 窓からの雪あかりのなかで、透明な涙が、茜音の白い頬を伝った。

「……柏木」

 まずい。

 こいつが泣きそうなの、わかってたのに、俺。

「ご──ごめん。泣いたりして」

 焦ったようにそう告げて、茜音は、右手の指で目のあたりをはらった。

 そのとき、彼のほっそりした指さきのかたちが、理人の目に焼きついた。

 きれいな指だ。

 第一関節から先が、すんなりと長い。繊細な貝殻のような、淡い色の爪。

「いや。……俺のほうこそ」

 どぎまぎしながらそう返したのは、たぶん、──なぜか、茜音の指さきに、胸の奥にふれられたような気がしたから。

 おまえが謝ることなんか、ないのに。

 そうつけ加えようとしたけれど、それを言ったら、よけいに茜音が泣いてしまいそうな気がして、理人はその言葉を飲み込んだ。

「行こう、柏木」

「行こうって……ど、どこへ」

「一緒に、職員室に行って、斉藤先生か吉村先生をつれてきて、この状況を見せよう」

 白い指さき。茜音の。

 すんなりと長くて、ほっそりしていて。

「い……いいのかな、そんなことして」

 もしも、この指さきに。

 俺が、ふれたら。あるいは、ふれられたら。

「いいに決まってる。学校で、こんなことが許されるわけがないだろ」

 ──そのとき、俺は。

 どんな気持ちになるだろう。

「泣き寝入りなんか、してちゃだめだよ、柏木。……きちんと教員に知らせて、対応してもらわないと」

 意識的に語調をやわらげて、説いてきかせるようにしながら、理人は、自分の腕が勝手に動くのを感じた。

 そうしようと意図するよりもさきに、自動的に。──ほとんど何の思考も働かせないまま、理人は、自分がしていた水色のマフラーをはずして、茜音の首元に巻いてやったのだ。

 泣いている彼が、あまりにも寒そうで。

「……あ」

 マフラーが彼にふれた瞬間、向かい合った茜音の目が、びっくりしたように見ひらかれた。

 驚きのあまり、言葉が出ないのか。茜音は、そのまま黙って、理人の手がマフラーを巻いていくにまかせた。

「あ……あり、がと」

 理人の手が離れて初めて、茜音は言葉をとりもどした。

 そうして彼は、理人を見あげた。

 涙に濡れた瞳。

 理人は茜音を見ていて、茜音も理人を見ていた。

 ──そのとき、茜音の右手が動いて。

 理人が結んでやったマフラーの結び目に、ふれた。

 ふれて、その存在を確かめるように。

 茜音のひとさし指の指さきが、幾度か、マフラーの結び目をなぞった。

 ただ、それだけのことなのに。

 その指さきの映像が目に焼きついて、理人の心から、離れなくなってしまった。

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