第25話 指さきの記憶(後)
「これは……ひどい」
アノラックが水浸しにされている状況をひとめ見るなり、教師がつぶやいた。
理人は、茜音とふたりで、当時の学年主任だった教員を連れてきたのだ。
今後はこういうことが起こらないように、今回は、少し厳しめにクラスで事情聴取をするつもりだ、と、その教師はうけあってくれた。
けれども。
「だけど、柏木が、今日、着て帰れるような、オーバーとかがないよな……」
斉藤という名の数学教師は、困ったように指で鼻の頭をかいた。
「柏木、おうちのひとに……お母さんに、車で迎えにきてもらえたりしないかな」
斉藤がそう尋ねたら、茜音は即座に首をふった。
「無理です。……あの、母は、たぶん今……仕事で、家にいません」
理人のマフラーをまいた茜音が、また、泣きそうな顔になった。
考えてみれば、親の助けを求められるような状況なら、茜音は最初からそうしていたはずだ。
「そうか、それじゃ困ったな。教頭先生と相談して、ちょっと、車、出してもらうか……」
「先生。あの、よかったら」
たまらなくなって、理人はそこで口をはさんだ。
「僕の家なら、近いですし。……母に車を出すことを、頼めると思うんですが」
そう告げたら、茜音よりもさきに、教師のほうが喜んだ声をあげた。
「そうか、楠田、お母さんに頼んでもらえるか?」
「はい。……職員室の電話を、お借りできますか?」
「おう」
職員室から電話をかけた。
電話に出た母に、「友達が、嫌がらせにあって、困った状況になってしまったから車で迎えにきてほしい」と頼んだら、母は、もうちょっと深刻な事態を想定したらしい。
「そのお友達、男子? それとも女の子なの?」
「男子。一ヶ月前に、こっちに転校してきたばっかりの子」
「怪我、してるの? 病院に行くような感じ?」
「いや、怪我はしてない。本人は大丈夫なんだけど、外套をいたずらされて、水をびっしゃびしゃにかけられちゃってて。……着て帰るオーバーとかが、ないんだ」
ものの十分ほどで、母は迎えに来てくれた。
教師の斉藤からも母に事情を説明してもらい、雪が降りしきる中、三人で車に乗った。
「柏木くん、寒いでしょう。これでも車の暖房、最強にしてあるんだけど」
ハンドルを握りながら、母が茜音に声をかけた。
「いえ、大丈夫です。こちらこそ、ご迷惑をおかけして、すみません」
緊張して、茜音はとても硬い表情をしていたから、理人は助手席には乗らず、茜音と並んで、後部座席に乗っていた。
「理人、そこに膝掛け、あるわよね」
「ああ、あるよ」
「柏木くんに使ってもらいなさいね」
「うん。……な、柏木、これ、使いなよ」
くるくると巻いた形に整えてあった車内用のひざかけを、ほどいてから、茜音にかけてやった。
ピンクとベージュの格子柄に、ウサギのキャラクターがついた、毛布素材の布地だ。
「あ。……ありがと」
「妹のだから、そんな柄だけどさ。寒いから」
「うん」
中学校から、比宇可川のほうへと母は車を走らせた。町外れのそのあたりに、古い町営住宅が肩を寄せ合うようにして並ぶ一角があり、茜音の家は、そのなかの一軒だったからだ。
「柏木くん。……もしかして」
信号待ちのタイミングで、母が尋ねた。
「柏木くんのお母さんって……柏木菜々さんかしら?」
「あ、はい。そうです」
茜音の横顔が、ふっと緊張した。
「比宇可高校出身の方よね? 合唱部だった……かな」
「……そうです。あの、部活までは、わかんないですけど、母は……比宇可高校でした」
「私も比宇可高校出身なの。お母さんの菜々さんは、たしか……私の一学年下だったはずだから」
「そう……なんですか?」
「お母さんにきいてみて? 私、旧姓は、竹下というの。竹下真里って言ってくれれば、覚えていらっしゃるかも」
母がそう言ったあたりで、車が、町営住宅の地域に入った。
「そこを右です」とか「つきあたりまで行って、左へ」とかいう、茜音の言葉で、狭い路地をいくつか曲がって、ようやく茜音の自宅についた。
周囲の家には明かりが灯っていて、人の気配があるのに、茜音の家だけは、電気が消えていて、真っ暗なままだった。
「お世話になりました。ほんとうに……助かりました」
何度も頭をさげて、母に礼を言ったのち。
「楠田。……これ」
茜音は、理人がまいてやったマフラーを首からはずした。
「マフラー、どうもありがとう。……嬉しかった」
「あ、いや」
マフラーを返してくれたときに、理人の手に、茜音の手がふれた。
一瞬、だけど。
彼のきれいな指さきは、とても冷たかった。
雪あかりのなか、制服の肩を、寒そうに縮めながら、茜音は自分の家に帰っていき、理人はその背中を見ていた。
茜音を見送って、車内には母と理人のふたりだけになった。母の車は、そのまま家へと向かう道を走りはじめた。
雪がひどくなってきたので、母は、ワイパーを最速にした。ヘッドライトの光のなかを、雪がしずかに、しかし大量に降り続けている。
「柏木くんって、関東から、引っ越してきた……んだっけ?」
物思いにとらわれていたような母が、ふと、理人に声をかけてきた。
「うん。埼玉からね」
「いつのこと?」
「先月の最初かな」
「じゃあ、まだ一ヶ月ぐらいしか経ってないのね」
母はそう口にしただけだったが、彼女には、なにか気にかかることがあるみたいだった。
それは、柏木菜々という女性との思い出によるものかもしれないし、あるいは、母親からあまりケアをしてもらっていないらしい、息子の茜音について、かもしれなかった。
「理人」
「ん?」
「もし、柏木くんが、学校で困っているようなことがあったらね」
「……うん」
「なるべく理人、助けてあげなさい。もし、中学生だけでは難しい状況になってしまうんなら、ちゃんとお母さんにも話して」
「うん。……わかった」
今日、初めて茜音に会った母の目にも、茜音のあぶなっかしい感じは、見てとれてしまうのだろうか。
それとも、茜音の母である柏木菜々という女性の記憶が、母にそう言わせたのだろうか。
「今年も、これが根雪になっちゃうわね」
ひとりごとのように、母がつぶやいた。
雪がまた、ひどくなっていた。
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