第22話 ふれられる位置で、ふれずにいること
「あら、ま」
短いリアクション。
そのあと、「ほう……それはそれは」とつぶやくと、俊一は、とん、とグラスをテーブルに置いた。
「おまえさ」
俊一が身を乗り出した。──若干、おもしろがられているような気もする。
「はい」
「ついに、茜音くんにコクったってこと?」
「まさか。今、あいつ、高認試験の本番直前じゃないですか。俺がそんなことしたら、……頭、混乱しちゃって大変でしょ」
「そんじゃ、どうして『今日が最後』? 茜音くんに、おまえが宣言したの?」
「いえ。……それも別に、何も言ってないです。なにせ受験前の大切な時期だから」
「ほお?」
「俺がひとりで、心の中で、『会うのは今日が最後』って決めただけ。だから今日以降は……もう家庭教師も終わったし、適当に言い訳つくって、会わないようにしようって、決めたんです」
「そりゃ、いったいどうして?」
「だって、もう、俺が限界なんです。……あいつと二人っきりでいるのが」
「限界?」
「二人だけの空間で、俺の気持ちを、……我慢したままで、いるの」
この前、茜音が泊まった次の朝、玄関で。
それまで、ちゃんと我慢できていたのに、つい、気がゆるんだのだと思う。
……あんな──キス、なんてことをしでかしてしまったから、俺は。
もう、無理だと思った。茜音とこれ以上、二人っきりでいたら、絶対に、我慢がきかなくなる。
我慢できなくなって──もっと、キス以上の、とんでもないことをするかもしれない。
「その『限界だ』っていうの、理人、俺にかけてきた電話でも言ってたねえ」
俊一が、つまみのおかきを、ぽりぽりとかじりながら言った。
「だって俊ちゃん、俺……今まで、よく我慢して、茜音に家庭教師できてたな、と思うくらいです」
「ふうん?」
「ずーっと自分の心を縛りつけてるのが……もう、俺、苦しくて、限界で」
三年ぶりに電話をもらって。
札幌のハンバーガーショップで再会した茜音は、十九歳になっていた。自分と同じ年なんだから、当たり前だけど。
記憶のなかの彼よりも、その茜音は、ずっと大人びていて、そして──端的に言えば、ひどくきれいな青年になっていた。
彼の魅力の輪郭が、もっとあざやかに、そしてくっきりとしていた。
茜音がそばにいるだけで、理人の中のセクシュアルな欲求に、そっと彼の指さきでふれられているような、そんな危うい気持ちになるのだ。
だから、茜音から「家庭教師をしてほしい」と頼まれたとき、「俺にできるのか?」と、まず自分で自分に問いただした。──いや、正確にいうなら、「俺に、ちゃんと我慢しきれるのか?」という問いだ。
しかも茜音は、理人に完全に気を許していて、平気で手でふれてきたり、顔をちかづけてきたり……悪夢にうなされた明け方に、抱きしめてもらいたがったり、する。
茜音の息、「理人」と呼ぶ声、体温のある肌。
そういうものを、すぐふれられそうな位置で感じて、そして、ふれずにいることが。
俺に、できるだろうか?
「高卒の資格を取りたいっていう茜音のことを、応援したい、力になりたいって気持ちだって、もちろん、俺、あったんです」
「そら、そうだわな」
「だから、結局、家庭教師を引き受けたんですけど……」
「うん」
「もう、無理です、俺」
ため息をついた。
深く、長く。
「けどさ。……おまえ、足かけ何年、片想いしてんの? 茜音くんに」
「……六年、ですかね」
十四歳だった理人と茜音が、二十歳になるまでの年月。
そのうち、途中の三年間は、まったくの音信不通だったけれど、理人の気持ちは、ずっと続いたままだった。
「根本的なことを言うけどさ」
「はい」
「もう、おまえさ。茜音くんにコクっちゃえよ」
「……無理です、そんなの」
「ふうん? なんで?」
──俊ちゃんは。
「茜音くんが高認試験に合格すれば、家庭教師として、お役御免になるだろ。……だったら理人、六年も片想いしてるんならさ」
俊ちゃんは、知らない。
茜音と俺の間に、三年間の空白があることを。
俺が言ってないんだから、知るわけがないけど。
「限界だから、一緒にいられない、なんて言い出すぐらいなら、正々堂々と、茜音くんに告白しちゃえばいいだろうにさあ」
三年間の空白にいたるまでのいきさつを。
十六歳の茜音に、何が起こったのか、を。
「だって……、無理です。そんな……俺には、できない……」
そのあと、言葉が続かなくなって、理人は黙り込んだ。
茜音の左腕の内側、肘より少し下にある、七センチの傷あと。
彼が高校に行けなかった理由、今でも悪夢に悩まされている原因。
その原因が、茜音の心のなかにあるから、俺は。
「なんで?」
その問いに、理人は答えなかった。
──茜音に、友達以上の関係を、男の俺が求めてはいけないと思っている。
そんなことをしたら、茜音が、壊れてしまうから。
俺との関係が、どうのこうの、じゃなく。
茜音自身の精神が、壊れてしまうかもしれないのが、一番、怖い。
「ふうん? ……理人、やけに頑固だねえ」
黙り込んでしまった理人に、俊一は、怪訝そうな顔をしている。
その俊一の顔を見ながら──もしかして、と考えた。
もしかして、俊一には、茜音の経験したできごとの、そのアウトラインくらいは話しておいたほうがいいのかもしれない。
俊一に、なら。……弁護士という職業柄、社会の中に存在する、人間の暗部を見聞きする経験も多いはずの彼になら。
「俊ちゃん。……あの」
「あ、うん?」
十六歳の茜音に何が起こったのかを伝えたとしても、このひとなら、決して偏見を抱いたり、差別したりすることがないのを、俺は、よく知っているから。
「茜音のプライバシーの根幹に関わるようなことなんで、軽々しく話したりできないって思ってたから、……俺、今まで話さなかったんですけど」
「……うん」
理人の話す口調がすこし変わったことを、敏感に察知したらしい。聞いている俊一が、いずまいを正すようにした。
「茜音は、十六歳のときに、ある事件が起こって。……で、心に……なんていうか、深い傷を負ってるんです」
理人がそう告げても、俊一は、そのまま、まだ何も言わなかった。──ただ、何かをじっと考えこんでいる。
「その事件のせいで、茜音は、高校に行けなくなってしまったっていういきさつもあるし、俺とも、三年間、音信不通だったんです。……再会できたのは、札幌に引っ越してきた茜音から、連絡をもらったからで、それまで、俺のほうからもあいつに連絡できなかった」
理人がそう言ったあたりで、俊一が、はっと何かに気づいた表情になった。
「茜音くんが十六歳ってことは……今から、四年前、か。……比宇可町で、か。……」
それらのキーワードが、彼の記憶のなかにあったものをクリックしたらしい。
「茜音くんは、……あの事件の被害者だったのか」
そうつぶやいた俊一が、衝撃を受けた表情になった。
無理もない。あの事件は、おおよそのアウトラインを知っただけでも、胸の中が真っ黒に塗りつぶされてしまうような、陰惨な種類のものだから。
「それは……つらかっただろうな」
やりきれない、という顔の俊一がつぶやいた。
「つらかったし、苦しかったと思います。……そのあと、茜音、半年ぐらい入院していたんです」
「いや、被害者の茜音くんはもちろん、だけどな。……理人、おまえも、ショックだっただろう? 苦しかったはずだ」
俊一にそう言われて、はっとした。
理人は、自分の心の動きに、そのとき初めて気づいたような気持ちになった。
むろん、一番つらかったのは、当事者である茜音に決まっている。いまだに、ひどい悪夢で目を覚まして、体を震わせてしまうくらいなのだ。当時の経験を乗り越えて、今、しっかり一人暮らしをできるようになるまででも、どれだけ大変だっただろうか、と思う。
けれども、理人のほうも。
──どうして気づいてやれなかったのか、どうして救ってやれなかったのか、ずっとそのことを考え続け、悩み続けていた理人自身もまた、確かに苦しんでいたのだ。
「ああいう事件の被害が明るみに出ないで、家庭内で進行することが多いのは……被害を受けている子どもたち自身に、打ち明けようという意識がないことが多いからなんだ」
その俊一の言葉を聞いて、理人は、あっ、と思った。
確かに、十六歳の茜音も、同じような状況にあった。彼は何度か、口にしていた。──「お母さんに、言わないで」。
「自分が黙っていれば、家庭内の平和が保たれる。自分が我慢すればいいっていう、間違った認識を、つい、持ってしまう。そしてそこから、抜け出るのがひどく難しい」
「俊ちゃん、それって……どうしてなんですか? どうして、そんなことが、起きてしまうんですか?」
「それは、彼らが子どもだから、だよ」
俊一の答えは短かった。
けれど、そのぶん──たくさんのものを内包していた。
「まだ判断力が未熟な子どもだから、一種の洗脳状態に置かれてしまいやすいんだと思う。……彼らに非は、何一つないのに、なぜか自分自身に非があると考えてしまう」
俊一は、手の中のグラスの存在を思い出したのか、それを口に運ぼうとした。
が、途中で気が変わったらしく、ふいにやめてしまった。
「でも、じゃあ……俺は、どうしたらいいんだろう? 茜音に、どうやって接するのがいいんだろう?」
そう口にしたら、理人の声は、自分でも思いがけないほど、苦しい声になっていた。
「……そう、ねえ」
俊一は、ため息をつくように言った。
「難しいねえ……」
俊ちゃんにとっても難しいことなら。
俺には、もっともっと、難しいよ。
*
「でもさ。理人。……今日の感想を、ひとつ言っておくなら、さ」
俊一の目が、またたかない星のようになって、理人の目をじっと見つめた。
「今日、会ってみて思ったけど。……茜音くんは、おまえのこと、たぶん……かなり、好きだぞ?」
従兄の言葉は。
思ってもみなかった方向から飛んできたボールみたいだった。
「理人がわかってないだけだ。……たぶん、彼は、おまえのことが好きだ」
やけにはっきりと、言い切られる。
「あ、今の『好き』ってのは、友だちとして、とかじゃないぞ? 『愛だの恋だの』のほうの『好き』、だぞ?」
付け足しまでされた。
「……そ、そんなこと……」
たじろいた。
「そんなこと、あるよ」
たじろいだ理人のセリフを、俊一がもぎとった。
意外なほど強い声。
「今日、おまえがこの家に帰ってきたとたん、茜音くん、全身が、でっかいパラボラアンテナみたいになってた」
「……パラボラ、アンテナ?」
「そ。おまえの一挙手一投足に、彼の全意識が向いてんの。理人の動きと言葉を、彼は、すべての意識を使ってとらえようとしてるんだよ」
……茜音、が?
ひとつ残らず、見逃さないように、聞き逃してしまわないように?
──俺のこと、を?
「茜音くんは、理人の存在を、めちゃくちゃ意識してるよ。……おまえのことが、気にかかって、しかたがないんだな、きっと」
「……そんなふうに、俺」
「うん?」
「思ったこと、ないけど……」
理人は、右手の指で、自分のくちびるを押さえた。
あの朝。玄関先で、茜音の唇と、ふれあった場所。
「パラボラアンテナになってる茜音くんに、理人が気づかないのは、おまえも同じように、茜音くんに対して、パラボラアンテナになってるから、だよ」
茜音の唇は、やわらかで、湿っていた。
あたたかくて、そして、生きている、と思った。
生きている。
茜音の体に、ひとつの生命がある。俺と同じように。
「相手と同じレベルで、おまえも、茜音くんの一挙手一投足に、意識が集中しちゃってる。──だから、理人には気づけない」
かんたんな数式の説明をするように、ごく理路整然と、俊一は断言した。
「あ。ビールぬるくなっちゃったな」
そうは言ったが、俊一はグラスをとりあげ、そのビールを飲み干した。
空になったグラスがテーブルの上に置かれると、とん、という音が、ふけていく夜の中に、ピリオドのように響いた。
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