第19話 彼の名前は
そして。
「おう、理人」
中学生の理人の部屋に俊一がやってきたのは、その約一ヶ月後、年の瀬も押し迫った頃だった。
「久しぶりだな」
年上の従兄は、くしゃりと目を笑みのかたちにした。
以前は、わりと頻繁にこの部屋に遊びに来てくれていた俊一だったが、東京の大学に進学してからは、この部屋に来ることも、めっきり少なくなっていた。
それでも比宇可の町に帰ってくるたびに、理人に顔を見せてくれていたし、俊一の来訪は、いつでも心弾むものだった──のだが。
けれど、今回ばかりは。
「こちらこそ、お久しぶり、……です」
勉強机に向かっていた理人は、椅子を回転させて、しかたなく俊一のほうを向いた。
……気まずい。
なにせ、あのキスを目撃してしまってから、初めて彼と顔を合わせることになる。
「勉強中?」
「あ、……はい」
「そっか。高校受験まで、あといくらもないもんな」
そう言うと俊一は、カバーのかかったベッドの上に腰を降ろした。
俊一は普通の顔をしている。まるで、あのできごとなど、何もなかったかのように。
「久々に理人と、一回、対戦したかったけど。……勉強中のとこ、邪魔しちゃ、悪いよなあ」
残念そうに、彼がそう言うので。
「いえ。……俊ちゃんが、やるっていうなら……」
理人は、勉強していた椅子から立ち上がり、クローゼットからオセロ盤を取り出した。
「やるか?」
「やりましょう」
絨毯のうえに盤を置いて、差し向かいであぐらをかいた。
俊一は、あのことについて、ふれないつもり、であるらしい。
それならそれで、と思った。
いつものように、オセロの勝負に没頭してしまおう。
俊ちゃんが口にしないなら、俺だって、何も言うべきじゃない。
じゃんけんで先攻、後攻を決め(理人が後攻になった)、ハンデを(あらかじめ、四隅のマスにコマを置いておくのだ)「二つにしよう」という俊一に、「一つでいいですから」と抗議して承諾させ、ゲームを開始した。
ぱちり、ぱたん、ぱちり、ぱたん、ぱたん、ぱちり。
頭脳を全力で回転させる。この従兄と対戦するときは、常に真剣勝負でないとならない。
ぱちり、ぱたん、ぱたん、ぱちり。ぱちり、ぱたん、ぱちり。
半ばあたりで、十秒ほど熟考してから、俊一は、彼らしからぬ悪手を打った。……と思っていたのだが、それは、巧妙にしかけられた「罠」で、そのことに気づいたときには、もう理人の負けが確定していた。
「ああ、そっか……さっきの」
「そ。……トラップでしたー」
「あー、ちっくしょー」
「だから、ハンデを二つにしようって言ったのにさ」
ふたりで笑った。
そうしていると、これまで、従兄弟としてすごしてきた楽しい時間が、心の中に舞い戻ってきたようだった。
「もう一戦、いくか?」
「やりましょう」
そう言って、広がっていた盤のコマを、片づけはじめたときに。
「理人さ」
「はい」
「このあいだの……比宇可川の道でのこと、だけど」
ごくさりげなく、言われた。
どきん、と心臓が一拍、妙な具合で打った。
「ごめんな。変なところ、おまえに見せちゃって」
やはり。
このことを、彼は話しに来たのか。
「あのときは、朝早くだったから、なんか、……油断した。誰かがいるとは思ってなかった」
年上の彼は、ごく普通の顔でオセロのコマを片づけている。
だが、理人のほうは、手が止まってしまった。──それに気がついた俊一が、もう一度、ごめんな、と言って、苦笑した。
「なんで理人、あんなとこで走ってたの?」
「……受験で、陸上部、引退しちゃってから、走る時間がなくなっちゃって。だから、たまにはランニングしようと思って」
「それで、あんな朝早く?」
「はい」
「おまえって、陸上オタクだもんなあ」
ハハハ、と俊一が屈託なく笑い、そのおかげで、理人も笑うことができた。
そうしたら、心の重荷が取れたようになった。その重荷が取れて初めて、なんだか無駄に、重たい荷物を抱えこんでしまっていたことに気づいた。
「理人、なんか、すっげえパニクった顔になってたからさ」
「パニクってた……かな、俺」
「うん」
俊一がそう返して、ふたたび笑った。
「あいつが、『フォローしといてあげたほうが、いいんじゃない?』って言うから」
──あいつ? ……って、誰のことだ?
「ちょっと、理人に、話をしとこっかなー、と思って。……そんで、今日、ここにオセロしに来たの」
そのあたりで、俊一の言う「あいつ」が、彼がキスをしていた相手のことだ、と思いあたった。
そっか。
俊ちゃん、今、あのひとのことを……「あいつ」って呼んだんだ。
そう、か。
こんなふうにやさしい顔で、「あいつ」って呼ぶ……のか。
俊一とあの彼は、特別な関係性にあるんだな。──という理解が、キスを目撃したときよりも深く、胸の中に落ちていった。
友達とはちがう。友達よりも、特別な。
「あのひと……」
「うん?」
「あの、相手のひとって……どういう方、なんですか?」
「ああ」
オセロのコマを、かたづけていた俊一が、その手を休めないまま微笑んだ。
ふわり、と。
「一コ上の先輩。高校のときの」
その微笑みは、理人が初めて目にするような、やわらかなものだった。
「じゃあ、札幌のひとなんですか?」
「うん、そう」
「お名前は?」
「え、ソレ、言うの?」
「いいじゃないですか、べつに」
理人は笑った。年上の彼を、やりこめられる機会はめったにない。
「……ササキトモヒコっての」
けれども、俊一のほうが、一枚うわて、だった。
彼の名前を口にした俊一は、とてもやわらかな笑みを浮かべたからだ。
さっき目にしたような、ふだんの彼の笑い方とはまったく違う種類の、やわらかなほほえみ。
うわ、なんていうか。
「……ささき、ともひこ、さん……ですか」
なんていうか──俺、俊ちゃんに、完敗したって、かんじ。
「そ。ササキは、フツーに佐々木、トモヒコのトモは『月』がふたつ──」
そこまで俊一が答えたとき、唐突に、彼の目が見ひらかれた。
はっと、何かに気づいたように。
「理人?」
「えっと……はい?」
「こっち、見ろ。……俺に、おまえの顔、見せてみろ」
わけがわからないまま、理人はオセロ盤から顔を上げて、言われた通りに俊一の顔を見た。
俊一は、じっと理人の顔を見ている。その顔が驚いた表情から、しだいに、徐々に──「ああ」と納得するものへと変わっていく。
「理人、おまえ……」
「はい?」
「おまえ、俺と同じ──なのか」
俊一にそう言われたときには、まだ、自分は怪訝な顔をしていたと思う。
なにが、どう「俺と同じ」なのか、さっぱりわからなかったから。
けれど。
「気づかなかった。……おまえ、俺と同じで──」
次の瞬間、ずばりと言い当てられた。
「好きな相手が、男なんだな」
息が止まるかと思った。
今までの会話のどの部分で、自分の反応や表情のどのあたりで、この頭のいい従兄が見抜いたのかはわからなかったけれど。
まさしく、そのとおりだった。
十四歳の頃から始まった、苦しい片想いの相手が──彼、だったのだ。
「……どうしてわかったんですか」
思わず、そんなセリフが滑り出た。
オセロのコマをかたづけていた俊一の手が、そこで止まった。
「いとこの勘と、……同じ経験を持つ者としての、シンパシー、かな」
それだけ言うと、俊一は、また手の動きを再開させて、ぽつぽつと、盤の上からコマを片づけはじめた。
「そう、ですか……」
そう答えたときには、最初の「言い当てられた衝撃」は、すこしずつ、潮が引いていくように、おさまりつつあったかもしれない。
「どういう子? 同級生?」
「……そうです」
「お名前は?」
俊一がにやにやしている。さっきの理人の問いを、逆手にとっているのだ。
「え?」
「理人くんが好きな相手の、お・な・ま・え・は?」
「……勘弁してください」
「俺だって、教えたじゃねえかようー」
「……もう、ずるいなぁ、俊ちゃん」
そう答えると、俊一がおかしくてたまらないように、ほがらかに笑いはじめたので。
つられて理人も笑い声をあげた。
声を出して笑ううちに、理人の胸を温かく満たしていくものがあった。
俺だけ、じゃない。──俊ちゃんと、その相手のひとも、同じ。
そんなふうに安堵の感情を得て初めて、それまでの自分が「同性に恋をしていること」を、どれほど不安に感じていたかを知った。
「俺が好きなのは……」
「うんうん」
「柏木茜音っていう名前です」
──自分がみんなと違っているのは。
「あかね、くん?」
とてつもなく真っ暗な、海の底にいるような感じだった。
「そう。女の子の名前みたいだけど……男です」
でも、俺は、ひとりじゃない。
ひとりじゃ、ない。
俊一とのこのときの会話は、十五歳の自分にとって、暗い夜の中にあかりを灯してもらったようだった。
小さなあかりだったけれど。
「自分ひとりじゃない」ということを知ったのは、押しつぶされそうになるほどの闇のなかで、初めて差し出してもらった、灯火だった。
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