第20話 長いあいだ
2
──やべ。鍵、わすれた。
茜音を駅まで送ったあと、自宅のマンションまでたどりついて。
オートロックのエントランスの扉を開けようとして、理人は、自宅の鍵を持っていないことに気づいた。
オーバーの右ポケ、左ポケ、ジーンズのポケット……順番に探っていくうち、どうやら自分は、玄関ドアに鍵をかけず、かつ、持たずにマンションを出てきたことに思い当たった。
何やってんだ、俺。
思わずため息をついた。
幸い、今夜は、従兄の俊一が泊まりに来てくれている。インターフォンで彼を呼び出して、エントランスのドアを開錠してもらわないと。
「あれ……理人?」
カメラで顔を認識したらしく、インターフォンからの俊一の声は、やや怪訝そうだ。
「ごめんなさい、俊ちゃん、俺、鍵を持って出るのを忘れて」
「あらら」
「ドアを開けてもらえますか?」
「オッケー」
俊一が開錠してくれたので、理人はガラスのエントランスのドアをあけて、建物の内部に入った。
エレベーターで四階まで上がりながら、人知れず、二度目のため息をつく。
茜音のことで、どれだけ、自分の頭がいっぱいになっていたのか、と思う。そこに、俊一が部屋に滞在してくれているという無意識の甘えが加わってか、つい鍵のことを失念した。
まあ、しかたがない、か。
六年間の自分の片想いに、さっき俺は、……自分で終止符を打ったんだから。鍵のことぐらい、つい、うっかりするさ。
自宅のドアを開けると、風呂上がりらしい格好の俊一が待っていてくれた。
「茜音くんを送ってきたの?」
「はい。駅まで」
できるだけ普通の声に聞こえるように、俊一には、簡単に答えた。
最後に茜音とふたりで、一緒に夜の道を歩きたくて、そうした。
今日で、茜音の顔を見るのが最後にしようと、ひそかに──けれども堅く、心に決めていたから。
六年ごしの片想いの終焉にしては、わりと、あっけなかった……かもしれない。
──ありがと。
別れ際に茜音は、にこっと笑って、小さく手を振った。十四歳のときから、ずっと理人が好きだった、茜音の笑顔。
地下鉄の構内に続く階段を、一段、一段、降りていく茜音の姿を見ていた。キャラメル色のオーバーは、一度も振り返らず、あっけなく理人の視界から消えた。
茜音のほうは、理人の決意を想像さえしていないだろう。
自分ひとりで勝手にはじめた片想いなんだから。
自分ひとりで、勝手に終わらせればいい。
それだけのこと。……
リビングに足を踏み入れると、さっきまで茜音と勉強していたテーブルのうえに、俊一が買ってきたらしい缶ビールとつまみがいくつか並んでいる。
「理人も飲むか? こないだハタチになったろ?」
「あ。……いただきます」
そう答えて、理人がキッチンからグラスをとってくると、俊一がビールを注いでくれた。
「おまえとサシで飲むなんて。初めてだなあ」
やけに嬉しそうである。
……こっちも、「片想いを勝手に終了させた失恋記念日に、やけ酒」なんて、初めてだけど。
試験直前の茜音に、よけいなプレッシャーをかけてはいけないと思ったから、これで会うのは最後だとは、もちろん、告げなかった。
だから、別れ際に。「合格祝いの焼肉」なんていう、色気も素っ気もない約束を交わしたけれど。──それは、最初から、果たすつもりのない約束だった。
これからは、口実を作って、顔をあわせないようにして、そしてフェイドアウト。
そのシナリオが、一番、茜音を悲しませない。
「おつかれ」
「おつかれ様です」
かちんとグラスを合わせる。
小さな乾杯のあと、俊一は「ジョークを言いたい」という顔つきになった。
「初めて、『あの』茜音くんに会ってみての感想を、述べさせていただいても、よろしいでしょうか」
「あの」という言葉を、俊一が茜音に冠したのは、理人が中学の頃、茜音への片想いの話を、何度か俊一に相談してしまっているからだ。その頃は、まさか数年後の自分が、茜音と俊一を引き合わせることになるとは予想だにしていなかった。その日が、皮肉にも、自分の「失恋記念日」になるのだ、とも。
「……どうぞ」
まあ、からかわれてもしかたがない。
今夜、従兄の彼に泊まりにきてもらったのも、もとはと言えば、先週、理人が茜音にアクシデントのようなキスをしてしまったからだ。
あのキスのあと。──茜音と二人っきりの密室で、授業をすることなど、とうてい無理だと思った理人は、従兄の彼に電話をかけた。
──高認試験の直前で、茜音に英語と数学を教えなくちゃいけないのに。……もう俺、二人っきりという状況が、キツくて。俊ちゃん、その日、うちに来てもらえませんか。
そう頼み込んで、わざわざ俊一にこのマンションに来てもらったのである。
そのときの電話でも、俊一は「『あの』茜音くんの実物に、ようやく会えるなー」と、ニヤニヤ笑っているのが目に浮かぶような口調で話していた。
ちなみに、例のキスの一件も、今日を「失恋記念日」にする予定であったのも、むろん、俊一には伏せたままである。
「最初、茜音くんをぱっと見たときには、ですね。……おっ、これはこれは、かわい子ちゃんだな、と思ったんですが」
──かわい子ちゃん、って。
「実際に、いろいろ話してみたら」
話してみたら?
「なんていうか、すごく、雰囲気がある子だねえ。──と思いました」
最後まで冗談めかしていたが、俊一は、そんな感想を告げた。
理人が最初に茜音と出会ったのは、中学二年、茜音が比宇可中学に転校してきたときのことだが、その当時から、確かに茜音は、かなり印象に残るレベルの整った顔立ちをしていた。
でも、それだけなら。
「ていうか……茜音くんて、確かに美形っちゃ、美形だけど」
俊一の言葉が続いた。
「そういう目鼻立ちのこととか、どうでもよくなるぐらいの、……なんていうか、トータルで、独特の魅力があるヒトだねえ」
さっきまでのからかいの口調ではなく、今度の俊一の言葉は、しみじみとしたものだった。
──そう、単に。
茜音の顔が整っているだけ、なら。
俺はこんなに長いこと、片想いをしたりはしなかった、と思う。
田舎の中学では、「女っぽい」と揶揄されることも多かった茜音だが、その顔の造作はすんなりとしたラインで構成されていて、精緻に整っている。
色素が薄いたちなのか、肌の色も、瞳と髪の色彩も、日本人の平均よりもやや淡く、特に瞳の色が、不思議な色をしている。単純に茶色とも言えないような、複雑な色。周囲が暗いときには、あ、こいつの目、金色になってる、と思うこともある。
そして、その整った顔に。
茜音の表情や、声、言葉が宿っていくと。──彼だけが持つ独特の雰囲気がたゆたいはじめる。
睫の長い茜音の目、その瞳の動き、ほっそりとした体の華奢な印象、やや茶色がかった髪が太陽の光に、きらきらと透けるさま。
理人を見あげるときのまなざし、服の衿からのぞく白い喉、その喉仏のうっすらとした影。
シャープペンシルを持つ指さきの表情、理人、と呼ぶときの茜音の声、ココアのカップにおしあてられる、唇のいろ。
ぱっと見たときの整った容姿うんぬんよりも、一段深いところに、茜音の魅力があって、それを一度、知ってしまうと、どうしようもなく惹きつけられてしまうのだ。
すくなくとも、理人はそうだった。
たぶん、初めて出会った十四歳のときからずっと、茜音に、せつなくとらわれている。
長いあいだ──六年間、ずっと。
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