指さきの記憶

第18話 リアル・キス


    1


 最初は、行く手にあるその人影が、何をしているのかがわからなかった。

 あたりには深い霧がたちこめていて、走っている理人の視界を遮っていたからだ。

 秋の終わり、朝まだきの時刻。

 中学三年の理人は、実家近くの比宇可川沿いの遊歩道をランニングしている最中で、白い霧の中、理人とその人影以外に、周囲には誰もいなかった。

 走って近づいていくにつれ、その人影が一人ではなく二人の人物で構成されていること──背の高い男と小柄な女性のカップルが、体を寄せ合っているのだと判明した。

 そして、それとほぼ同時に、彼らが何をしているのかがわかった。

 ふたりは、唇を重ねていたのだ。

 そのとき、田舎町の十五歳だった理人にとって、(ドラマや映画の中ではなく)「キスをしている実際の人間」を目撃するのは、まるっきりはじめての経験、だった。

 ──え? マジ、で。

 そう思ったときには、もう、彼らのかなり近くの位置まで走ってきてしまっていて、二人のほうも、理人の存在に気づかざるを得ない距離にいた。

 小柄な女性のほうがふりむいて、「あ」という表情になった。

 その顔を見たとたん、その人物が「若い女性」なんかではないことが、はっきりとわかった。

 男だ。

 繊細な顔立ちをしていて、中性的な印象ではあるけれど、見間違えようもないほどはっきりと、若い男だった。

 驚いたあまり、その場に立ち止まってしまって、理人は、まじまじとその小柄な彼の顔を見つめてしまった。

 キス? 女性かと思っていたら、男? 

 てことは、このひとたち──

 その場で立ち尽くしてしまうくらいの衝撃だった。

 けれども、次の瞬間、さらにそれを上回るほどの出来事が起こった。

「理人」

 自分の名前が、はっきりと呼ばれたのである。

 聞き覚えのある、ほがらかな声。

「え?」

 はっとして、自分の名を呼んだ人物のほうを見た。

 小柄な彼がキスを交わしていた相手、背の高い青年が、自分の名前を呼んだのだとすぐに知れたのだが──それは。

「……俊、ちゃん」

 従兄の俊一だった。

 六歳年上で、父の兄の息子。

 父方のいとこの中には俊一と理人しか男がいなくて、小さな頃から、まるで弟のように可愛がってくれて、伯父の自慢の息子で、頭がものすごくよくて、オセロが天才的にうまくて、東京に住んで、東大に通っている俊一が。

 キスをしている場面に出くわしたのだった。

 しかも、同性の……男、と。

「あ、あの……」

 動揺した。

 どうしていいか、わからなかった。

「えっと、あの、俺……すみません」

 要領を得ない、そんなことを口走って。

 理人は、くるりと踵を返して、もと来た道を駆け出した。

 なんで? どうして? 俊ちゃんが?

 足の下にあるアスファルトが、瓦解していくかのような衝撃だった。

 マジで? あの俊ちゃんが? 男と?

 フォームなんかめちゃくちゃで、やみくもに走ったから、すぐに息が苦しくなった。

 心臓の鼓動が速い、呼吸が乱れている、でも、必死に足で地面を蹴った。

 なんで? なんで? なんで?

 頭の中でその言葉が、わんわん鳴り響いていたことを、理人は二十歳の今でも覚えている。

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