第17話 星空の帰り道


 歩みをとめていた理人が、ふたたび歩きはじめた。

 茜音もその動きに従って、また歩き出す。

 ……俊一さんが、同性の人をパートナーとした話を。

 どうして、今、この瞬間に、理人は口にしたのだろうか?

 そんなことをぐるぐる考えた。

 けれど、そのことを──理人にとって、とてもちかしい存在の年上の従兄が、同性の人物を、人生のパートナーに選んだということを、理人は、どうしても、今、茜音に打ち明けたかったのだ、という切実さだけは、じかに伝わってきた。

 歩くうちに、地下鉄の駅の構内へと続く階段の入り口のすぐそばまできた。

 理人と別れなければならない場所、だ。

 ──なんて、言おう? 

 今夜が最後の授業だった。ここまで長いこと、勉強を見てくれたお礼を、理人に、ちゃんとあらためて伝えたかった。

 なんて、どんなふうに、言えばいい? 

 俺は。……

「あ!」

 そのとき、茜音は小さく叫び声をあげた。

「ん? どした」

「理人、俺」

「なんだよ?」

「今日の授業料の三千円、おまえに渡してなかった……!」

 茜音はそう言って、慌てて、その場で背負っていたリュックを慌てて下ろしにかかった。

 いつものように三枚の千円札を封筒に入れて、ちゃんと用意してきたのだ。

 ふだんなら授業前に理人に渡すのに、今日は、タイミングを逸して、忘れちゃってて……

「いいよ、茜音。今日のぶんは」

 左腕でリュックを抱いて、右手でチャックをあけて、夜の路上で、リュックの中をバタバタと探し始めた茜音に、理人が、笑い声をかけた。

「よくないよ! 今日、最後の授業だったのに」

「いいって、ほんと。……だって、今日は俺が大遅刻しちゃったし」

 そういって、理人は、茜音の動きを制するように、茜音の右手を軽くおさえた。

 理人の手のひらと、茜音の手の甲が。

 ふれた。

 ──けれど、ただそれだけだった。

 彼の手は、何事もなかったように、また、離れていく。

「じゃあ、さ。……こうしよう?」

 いいことを思いついたように、理人が言った。

 ネオンで照らされた駅の雑踏の中で、笑っている彼は、背の高い、若い樹木みたいだった。

 空の高いところに向かって、背を伸ばしたがっている、きれいなポプラの木。

「合格したら、そのお祝いでさ。その三千円で、なんかうまいもんでも、食べにいこうよ」

「え……けど」

「俺たちこれまで、コンビニメシ一択だったじゃん」

「うん。……でも」

「だから、合格祝いで、焼肉とか。ぱーっとさ」

「けど、俺……」

「なにが『けど』なの」

「そんなこと言ったって、俺、……」

「うん?」

「受かんない、かも……」

 茜音は、真剣に自分の不安を口にしたのに。

 理人は笑った。

 くっくっくっ……笑いを噛み殺そうとしたのに、それができなかったみたいに、心からおかしそうに、笑った。

 ──そう、確かに理人は笑っていたのに。

 なぜか、ひどく不思議なことに、冬の星空の下で、理人は、まるで泣いているかのように見えた。

 ほんとうは泣きたいのに、泣いているのがバレないように、そのかわりに笑ってみせたように、そんなふうに茜音の目に映ったのだ。

 なぜ、だろう……?

「受かるよ。……茜音は受かるよ」

 理人がそう言った。力強い声だった。

 自分以外の誰かに、そんなふうに強い声で断言してもらえることが、それが理人の声であることが、嬉しかった。

 あたたかな光で、心が満たされる。

「ここまで、努力してきたんだから。俺と神様が、茜音についてる」

 そこまで口にすると、理人は、ふいに茜音に向かって手を伸ばした。

 とすん、と茜音の髪に、その手が差し入れられる。

 くしゃくしゃ、くしゃり、と三回、茜音の前髪をかきまぜるようにしてから、理人の手が離れていく。

 同い年のなのに。

 優しい兄のような所作。──茜音の不安な気持ちに寄り添って、勇気づけてくれるような、そんな。

「じゃあな、茜音」

「うん」

「気をつけて帰れよ」

「ありがと」

 茜音は、軽く手を振った。

 理人もふりかえしてくれた。

 踵をかえして、地下鉄の構内へと続く階段を、一歩、一歩、降りていく。

 理人から、遠ざかっていく、離れていく。……彼のほうも、さっき二人で歩いた道を引き返して、自分のマンションへと歩きはじめただろう。

 茜音は、自分の前髪あたりに残る、手のひらの感触を思い返していた。

 くしゃくしゃ、くしゃり、と前髪に差し入れた指で、三回、かきまぜるみたいにした、あの理人の手の──自分のものとはちがう質感、硬さ、あたたかさ。

 同性の親しい友達として、気軽に手や指先がふれあったことなど、幾度もある。

 悪夢にうなされた明け方、理人に抱きしめられて同じ布団で眠ったことだって、ある。

 けれど。

 けれど。……

 あの玄関先のキス以来、理人の手が自分にふれてくることに、もしかしたら自分は、ひどく敏感になってしまっているのかもしれない。

 なぜなら。

 三千円を入れた封筒を探そうとした手を、理人の手で、軽く押さえられたとき。

 それから、別れ際に、くしゃくしゃ、くしゃと前髪をかきまぜられたときのことを。

 その瞬間の理人の手のひらの感触を、自分の体のうえに思い返しただけで。


 なにか熱いもので、胸があふれそうになる。そして、なんだか。

 なんだか。……

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