第31話 16歳──事件(2)



 家を抜け出して、自転車を走らせた。

 両親には、何も告げなかった。

 雪が降る前の、夜が最も暗く感じられる季節。木枯らしが吹き荒れている。

 以前、茜音から送られてきたアパートの住所をスマホで検索した。

 「製紙工場のそば」というのは、理人の家からかなり離れている。車ならきっと、ものの五、六分程度で着く。でも、自転車だったら──

 茜音、茜音、茜音……

 全力で自転車を漕ぐ。ペダルを踏む脚に力をこめて、呼吸が上がる。

 冷たい空気が肺の中に直接入る。

 苦しい、苦しい、苦しい。息が。心臓が。

 ああ、胸が。はりさけそうだ。

 「今すぐ、そっちに行くから」と、電話で、茜音に告げたとき。

 理人はようやく、自分が泣いていることに気づいて、そして、両親のどちらかに助けを求めようと本気で思った。

 茜音から電話があった、カッターで、自分の腕を切ったって言ってる、おまけに血が止まらないって──もう、事態がここまで来ていたなら、高校生の自分では、彼を助けられない、大人の力が必要だと、必死に考えた。

 けれど。

「理人。……お母さんに言わないで」

 電話口の茜音が、はっきりとそう告げたのだ。

「お願いだから。……お母さんに、言わないで」

 その「お母さん」が、誰をさしているのか──理人の母なのか、茜音自身の母をさしているのか、判然としなかったが、「わかった」としか、理人には答えられなかった。

 秋雨の夜に見た茜音の、「理人の家と、うちの家は、全然違う」とつぶやいたときの、茜音のさびしげな顔が胸によぎった。……そうしたら、「わかった」以外のことが、言えなくなってしまったのだ。

 ちくしょう、と思った。

 ペダルを踏む足に、力をこめる。

 怒りのような激しい感情、でも、怒りとも違う、名前のわからない、けれど、とても激しい感情。

 理人の胸の中でマグマのようにふくれあがっていって、そして。

 息が苦しくて、胸がはりさけそうで。

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。……

 製紙工場の裏手、マップ検索の写真で見た、アパートの建物を見つけた。夜だから、色がわかりにくい。だが、焦げ茶色のふるぼけた建物──ああ、きっと、これだ。

 くそ、風が強い、冷たい。肌が、切り裂かれるようだ。

 おまけに、雪まで降ってきやがった。

 今年最初の──初雪だ。

 一〇二号室。……これ──この部屋、だろうか?

 表札が出ていない。とりあえず、チャイムを鳴らしてみた。

誰も出てこない。部屋の内部に明かりが灯っているかどうかも、よくわからない。

 マップ上では、このドアが、茜音の住所のはず──とりあえず、茜音に電話を、かけて……

 そう思った理人が、焦った手でスマホを操作しようとしたとき、唐突に、目の前のドアがひらいた。

 誰かが、内部から開けたのだ。

「……りひ、と」

 茜音が立っていた。玄関のたたきに。

 グレイのスウェットの上下を着ていた。タオルらしきものを左腕に巻いて、右手でそれを押さえている。

 そして、そのタオルも、スウェットも──左腕のタオルをおさえる、彼の右手も、血だらけ、だった。

 玄関には明かりがついておらず、茜音が背にしている部屋の内部からの光と、アパートの共同通路の照明しかない中で、その血の色は、赤ではなく、黒に見えた。

 血のにおいが、した。

「……茜音」

 名前を呼んだら。

 泣いている茜音の目が、理人の目を見た。

 血の気のひいた、蒼白な顔で。血まみれの服で。

「理人、来て、くれた……んだね?」

 そう口にして、理人の顔を見ると、ほっとしたような表情になって──茜音は、すこしだけ、ほんのすこしだけ、笑ったのだ。

 けれど、次の瞬間、ゆらり、と茜音の体が、かしいだから。

「茜音!」

 理人は思わず、その細い体を抱きしめた。

 同い年の、男の体なのに──びっくりするほど、力のない体だった。

「茜音、い、い──今、救急車を、呼ぶから……」

 玄関のたたきに、じかにすわった自分の膝の上に、倒れた茜音の体を抱き上げた。

「ごめん、理人。……助けてほしいって思ったとき、俺、電話かけられるの、理人しか、いなかったんだ……」

 蒼白な顔で、茜音がそう言った。

 理人の頬を、涙が伝っていった。

 目の前で、力なく倒れた友だち、黒い色に見える血液、ほんとうなら赤いはずの──ああ、どうして。

 どうして、茜音は、こんなことを。

 ぶるぶる震えが止まらない手で、理人は、一一九番に電話をかけた。

 茜音、茜音、茜音……

 だめだ、死ぬな、茜音。

 お願いだから……お願いだから、死ぬな、茜音。


 ──それから、救急車が到着するまでの、ほんの数分の間に。

 理人の膝のうえに、ぐったり横たわった茜音は、理人に打ち明けてくれた。

 苦しげで、きれぎれの声。──でも、茜音には、吐露することが必要だったのだと思う。

 彼に起きていた、ほんとうのできごとを。

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