第30話 16歳──事件(1)

 ──あの日。

 茜音からの電話があったことに気づいたのは、午後八時四十五分ごろだ。

 風呂から上がって、タオルで髪をごしごし拭きながら、自室で充電しておいたスマホを見ると、理人が入浴していた間に、茜音から三件の着信があった。

 午後八時二十四分に一回、三十二分に、連続して二回。

 ……どうかしたのか、茜音?

 なんとなく、嫌な予感が胸によぎった。

 「引っ越ししました!」というテキストメッセージを、住所と一緒にもらったのが、ちょうど一ヶ月前のことだ。

「今度のアパートは、製紙工場の近くで、ニオイがけっこう、すごい(笑)」

「でも『すき家』が近くにあっていい(笑)」

 茜音の打った文字からは、あの秋雨の日に震えていた彼とは、別人のような明るさが醸し出されていた。「折り合いが悪い」と言っていた、母親の再婚相手から離れることができて、解放感を味わっているのかもしれなかった。

「引っ越し、お疲れさま。メッセージ、ありがとう」

「元気そうで、よかった」

「今度、一緒に遊ぼうな」

 理人は、そんな返信を書き送ったのだが。

 最後の一行は、すこしためらったのちに、書き直している。──最初は、「今度、遊びに行かせてよ」と打ったのだが、それだと、すこし茜音の側に立ち入りすぎているような気がして、「一緒に遊ぼうな」という言葉に変えたのだ。

 ……そんな一ヶ月前のことを思い出しながら、茜音からの着信履歴を見た理人は、すぐさま、茜音に電話をかけ直した。

 窓の外に、冬が始まる予兆の、強い木枯らしが吹き荒れている。

 その風の音を聞くうちに、嫌な予感が、急速に高まっていった。

 コール音は三回ほどで、すぐに電話がとられた。

「もしもし? 茜音?」

 そう呼びかけた。

 ……だが、返されたのは沈黙だ。

 無音状態があまりにも長く続くので、通話が始まっているのか、と、いったん、スマホを耳から離して、画面を確認したほどだ。

「……茜音? 俺に電話、くれてたよな?」

 ふたたび、無言。

「もしもし、茜音?」

 そう呼びかけたときに。

 理人の耳に聞こえてきたのは、息を吐く音だった。

 通話口に向かって、誰かが、深く、深く息を吐いた音。

「茜音?」

 そして、そのあと……聞こえてきたのは、噛み殺した嗚咽だった。

 息と、喉のふるえる音。苦しげな。

「茜音? 電話に出てるの、茜音なのか?」

 心拍数が一気に上がる。

 おかしい。何かが。

 なにか異常なことが、起こっている。心の中で、警報器が鳴っている。

「……ん、うん、俺」

 ようやく、茜音の声が聞こえた。

「理人、……どうしよう、俺」

 通話口から流れてきたのは、彼が泣いていることが、はっきりとわかる声だった。

「ど──どうしようって、何が?」

「ち、ちが……」

 茜音は、そこでしゃくりあげたので、彼が何を言おうとしたのか、よくわからなかったけれど。

 その次の言葉は、正確に聞き取れて、理人を深い淵に突き落とした。

「痛くて──血が、と……止まらないん、だ…」

 深い、淵。

 光がささなくて、真っ暗闇の、深い、淵。

「痛い? 血が止まらないって、茜音」

 心臓が、激しく打ちはじめた。めまいがするほど。

「おまえ、怪我してるのか? 今、茜音、どこにいるんだ?」

「家……」

「家? 家って、引っ越したアパートか?」

「……うん」

「どこを怪我したんだ?」

「腕……」

「どうして? どうして茜音、怪我したの?」

 その問いに、茜音は答えなかった。

 電話から聞こえてきたのは、要領を得ない、押し殺した泣き声だ。

 しばらくしてのち、切れ切れの声が聞こえた。

「──理人、ごめん。……俺が、自分で、やったの」

 カッターで。

 自分で──やったの。

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