第29話 高校1年──秋の冷たい雨

 真っ暗な夜の中に、秋の冷たい雨が大量に降り注いでいる。

 駅舎の窓ガラスごしに雨脚の強さを目にして、反射的に理人は、「めんどくせえな……」と心の中でつぶやいた。

 台風が姿を変えた低気圧のせいで、比宇可町にひどく強い雨が降っていた。

 高校一年の理人は、旭川まで片道一時間ちょっとかけて電車通学するようになっていて、比宇可駅まで帰り着くと、夜七時すぎであることが常だった。

 九月に入ってから、日ごとに太陽が落ちる時刻が早まっている。

 こんなに雨がひどかったら、傘をさしていても、たいして役に立たない。

 真っ暗な雨の中を、家まで濡れながら帰るより他はないのだが、それにしても、せめてもうすこし雨脚が弱まるのを、待とうか……と考えて、駅の待合室を見たときに、久しぶりに見る顔を見つけた。

 ──あれ? あそこに座ってるの……。

 蛍光灯の白い光に照らされた、年季の入った駅の待合室には、数列のベンチが並んでいる。

 そのベンチの一番奥の列、そして一番はじっこの場所に、ぽつんとひとり、茜音がすわっていたのである。

 駅を経由する雑多な人々の流れから、取り残されたような片隅の場所にいる。

 若草色のフーディ、黒のデニム、黒のスニーカー。──茜音は、顔をうつむかせて、手の中のスマホ画面を見ていた。

 ほぼ、半年ぶりに見る茜音の姿だった。

「茜音?」

 なつかしさがあふれて。

「久しぶりじゃん」

 すぐに歩み寄って、声をかけたのだが。

 そのとき、茜音が返した反応が、まるっきり予想外だった。──理人の声に、びくっと全身をふるわせて、ひどく硬い表情の顔を、おそるおそる、上向かせたのだ。

「あ。……理人」

 茜音の唇から、理人の名前がこぼれた。

 だが、彼の怯えた顔つきは、そのままだった。

 自分にかけられた声の主が、中学時代の友だちだと認識できたはずなのに。

「ど……どうして、理人、ここにいるの?」

 ふるえる弱い声。そして、周囲をうかがうような落ち着きのない目、すくませたままの体。

 ──怯えている。

 茜音のすべてが、強い恐れにかられていることを、物語っている。

「どうして、って。……今、学校から帰ってきたとこだよ」

 平日の夜七時に、旭川の高校の制服姿の理人が比宇可駅にいるなら、普通に考えて、電車通学の帰りであるとわかりそうなものだが。

「そっ、そっか……そ、うだよね」

 不自然なふるえかたをしている茜音の声を耳にしたあたりで、急速に、理人の胸にざわざわした思いが押し寄せた。

 おかしい。

 茜音がこんなふうに怯えているのは、なにか、理由があるはず。

 ──何があった? 

「茜音こそ、どうしてここにいるんだ?」

 とりあえず、そうたずねてみた。問いとしては、とりたてて変な種類のものではないはずだ。

「あ。……ああ、ええと」

 けれど、茜音の反応が、どうにも奇妙だ。

 まるで詰問されたみたいに、視線が落ち着きなくふらふらと揺れて、簡単な問いにさえ、きちんと答えることができない。

 たまらなくなって、理人は、ほとんど考えるひまもなく、茜音がすわっているベンチの右隣に腰かけた。

「どうしたの、茜音。……なんか、変だよ、おまえ」

 単刀直入に尋ねた。

 彼の言葉を引き出すなら、そうしたほうがいい、と感じたから。

「へ、変かな、俺」

「へんっていうか。……いつものおまえじゃないみたいだ」

 そう理人が言ったとき。

 ゆらり、と、左側にいた茜音の体が、理人のほうに傾いた。

「理人……」

 傾いた、というより。

 茜音は、彼の両腕を使って、理人の制服の左腕に、しがみついたのだ。

「あ、かね……?」

 ——心臓が、止まりそうだった。

 茜音の頭が、肩に乗っかっていた。茜音の髪が、理人の頬にふれていた。

 そして、手が。……理人の手を、握っていた。

 びっくりするくらい、つめたい手。

 そんなふうに、茜音の体が、友だち以上の距離感で理人の体にふれてきたのは、初めてだ。

「……どうしたんだ、茜音」

 片想いの相手から、そんなふうに体を接触されたら。

 ほんとうなら、甘やかな陶酔が胸に広がってもよさそうなものだが、そのときの理人が強く感じていたのは、それとはまったく異なる感情だった。

 茜音が、いつもの茜音じゃない。

 そのとき受けた印象を言葉にするなら。──茜音が、今にも、壊れてしまいそうだ、と思った。

 彼の心が。精神が。

「茜音? どうしたのか、俺に教えて」

 胸にざわめきが広がった。

 その時点でようやく、茜音のつめたい手を握り返した。

 怖い、と思ったからだ。茜音が、壊れてしまうのが。

 なんだか、取り返しがつかなくなりそうな気がして、怖くなった。──だから、茜音の手を握った。

 今、ここに、この場所に、彼をつなぎとめておきたくて。

「話してくれないと、茜音の力になれない」

 そこまで言ったとき、理人の肩口に顔を埋めたままの茜音が、ようやく口をひらいた。

「俺、……今夜、行くとこ、なくて」

 理人の肩に、顔を押しつけているから、彼の声はくぐもっている。

 どうして、という問いを口にしかけたが、理人は飲み込んだ。

「どうしたらいいか、わかんなくて」

「……そうか」

 茜音にしがみつかれていなかったほうの右手を、そっと茜音の背中に置いた。

 得体の知れない恐ろしさのなかにいるらしい彼を、ひとときでもいいから、自分の肩の上で、憩わせてやりたかったのだ。

「行くところがないのか?」

「……うん」

 理由を尋ねるべきだろうか。尋ねても、いいだろうか。

「どうしてなのか、聞いてもいいか?」

 逡巡のすえに、その問いを差し出したのに、茜音からは答えが返ってこなかった。

 そのかわりのように、理人の手を握っている冷たい手に、ぎゅっと力が込められた。

 言いたくないのか。言えない事情があるのか。だとしたら……。

 理人は、質問の矛先を変えてみることにした。

「お母さんは、今、どうしてるんだ?」

「……母親、は……旭川にいる」

「え。比宇可に住んでいるんじゃないのか」

「いや、住んでるのは、比宇可だよ。……おばあちゃんが、白内障の手術することになって、それで……比宇可の病院だと、その手術ができないから、旭川の病院に、一泊だけ入院することになって」

「ああ。……おばあちゃんに付き添ってるのか」

「そう。今夜一晩だけ、旭川にいる」

 そこまでの茜音の説明は、きちんと納得できるものだった。

 けれど。

「だから……俺、家にいられなくて」

 茜音は、そのあとのいくつかの論点をすっとばして、一足飛びに「家にいられない」という結論だけを口にした。

 ひどく奇妙な、おかしな、変な──異常な、感じ。

「どうして、おまえ、家にいられないの?」

 思い切って、その問いを口にした。

「……」

 言いたくないのか、言えないのか。

 わからないけれど、彼が「すっとばしたロジック」のなかに、茜音が感じている不安の原因があるはずだ、と思った。

 その「不安」について、切り込んでいいのか、悪いのか。

 ──どうしたら、いい? 

 逡巡ののちに、理人は、踏み込む決心をした。

「茜音、おじさんと、何かあったのか?」

「……」

 茜音は、無言のままだった。

 けれど、理人の問いに反応して、若草色のフーディに包まれた体にぎゅっと力が入った。

「何か、あったんだな? おじさんと」

「……」

 言葉では答えなかったけれど。

 茜音はそこで、ようやく、こくりとうなずいた。

「何があったの?」

「……」

「暴力をふるわれた? 殴られたりしたのか?」

「いや。……殴られたり、したわけじゃない」

 茜音は、初めてそこで、はっきりと答えた。

 それまで、沈黙を返すことが多かったのに、茜音はそこで初めて、明瞭に答えたのだ。

「それじゃ、どうして?」

 けれど、その次の理人の問いには、また、沈黙が返ってきた。

 理人にしがみついている、茜音の肩が、そのとき、細かくふるえはじめた。

 茜音が泣いていることに気づいて、理人は、もうそれ以上の問いを、口にできなくなった。

 茜音が口をつぐんでいる以上、どうしたらいいのかわからないのは、理人も同じだったのだ。



 その夜、理人は、茜音を自分の家に泊めた。

「うちの家って、ほら、しょっちゅう誰かが来てたりするような家だから。茜音に泊まってもらうことぐらい、なんてことないから」

 そう言って、半ば強引に説き伏せた。

 実際、小さな田舎町の町長をつとめるような父がいて、一族で地元の建築業を経営する理人の家は、経済的にも裕福だったし、そのぶん、いろんなことが鷹揚だった。なにせ地元のロータリークラブだの婦人会だのの会合を、「応接間」で執り行うような家だから、息子の友達が一人くらい泊まりに来たとしても、特に構わないのも事実ではある。

「茜音、傘、持ってる?」

「……ううん、持ってない」

 そりゃ困ったな──と思っていた矢先に、理人のスマホが着信を知らせて鳴りだした。

「理人、駅に着いてる?」

 母親からの電話だ。

「うん、さっき着いた」

「雨がひどいから、お母さん、車で迎えに行こうか?」

 渡りに船、だ。

 理人は手短に、茜音を一晩、家に泊めてほしいことを母に告げた。

「いいわよ。つれていらっしゃい」

 たぶん、そう答えてくれるだろうと思っていたが、理人の母は、即座に許可してくれた。

 中学時代に家に遊びに来ていた茜音が、複雑な家庭環境にいるらしいことを、彼女は理解している。母がきっと「いいわよ」と言ってくれると、息子の理人はわかっていた。

「理人は今、茜音くんと一緒にいるの?」

「そう」

「じゃあ、二人まとめて迎えに行けるわね。……お夕飯はどう? 茜音くんはもう、食べたのかしら?」

 そう問われた理人は、茜音のほうを向いた。

「茜音、夕飯、食べた?」

「……まだ」

「食べてないって」

「了解。じゃあ、これから駅に行くわね」

「ありがとう」

 通話を切ったあと、茜音が、じっと理人を見ていたことに気づいた。

「今の……理人のお母さん、だよね?」

「うん。雨がひどいから、車で迎えに来てくれるって。……あと、茜音が泊まってくれても、大丈夫だからって」

 理人は、茜音を安心させたくて、そう笑いかけたのだが。

 茜音は、なんだか──さびしそうな顔をした。

「……違うな。全然」

 ぽつん、とつぶやいた。

「違うって……なにが?」

「うちと。……理人の家と、うちの家。……ぜんぜん、違うんだな」

 そうつぶやいた茜音の顔は、見たことがないくらい、さびしげに見えた。


 

「祖母の手術に付き添うために、母が一晩、自宅をあけているので。……僕は、母の再婚相手と、折り合いが悪くて、母がいない状態だと、あの家にいづらくて」

 理人の両親に泊めてもらう礼を述べたあと、茜音本人が、彼の窮状をそう説明した。

 その言葉は。──実際に茜音が経験していた恐怖や苦しみとは、かけ離れたものだったのだが、それは、茜音自身が、自分の身に起こっていたことについて、沈黙することを選び取っていたからだ。

 そして、茜音自身が、そう述べてみせたことで、理人だけでなく、理人の両親も、その言葉に納得してしまったのだ。

 泊まった翌朝、(理人は自分のベッドで、茜音は、床の上に敷いた客用布団で寝た)茜音がぽそりと告げた。

 実は、二ヶ月前に、高校を中退してしまっていること。

 そして、現在は、コンビニとラーメン屋、それから清掃のアルバイトの三種類を掛け持ちしていること。

「え。……まじで?」

「うん」

「高校、中退した……のか」

「うん。……一人暮らしするために、お金がいるから。高校通ってたら、バイトできないじゃん」

 ははは、と声をあげて茜音は笑ったが、それは、カラ元気で、無理に笑っていると、すぐにわかるような笑い声でもあった。

「しんどくないか?」

「うーん、まあ……そうね」

「三種類も、バイトの掛け持ちなんて。……心配になるよ」

「でも、ラーメン屋はまかないが出るし、清掃は深夜だからバイト代がいいし、コンビニは、いろいろ楽しいよ」

「だけど、高校、やめるなんて」

「……」

「そんなに、一人暮らし、したいのか、おまえ」

「……」

 うつむいた茜音の横顔からは、無言しか帰ってこない。

「おじさんと……『折り合いが悪い』って、おまえ、言ってたけど」

「うん。──ていうかね。来月、もう引っ越すことが、決まってるんだ」

 微妙に、話をずらされた。

 言いたくないこと、理人に話したくないことが、あるみたいに。

「ほんとに?」

 だから、踏み込むことを、ためらった。

「うん。だから今は、ひたすら金を貯めなきゃって思ってる。……来月までの、辛抱なんだ」

 それまでの、辛抱なんだ。

 ……茜音がそのセリフを繰り返したとき。

 彼が、自分自身に必死に言い聞かせているようで、理人は、胸が痛くてしかたがなくなった。

 でも、その胸に感じた痛みを、どうすればいいのか、どう行動に変えればいいのか、十六歳の理人には、わからなかったのだ。


      *


 この年の初雪が降った夜に、あの事件が起こった。

 茜音の涙のほんとうの理由と、「殴られたり、したわけじゃない」という言葉の、裏側にあった真相について、理人は知ることになる。

 秋雨の夜、あきらかに茜音が深く傷ついていたことを感じ取っていたのに、それに対して、積極的に助けを求める行為に結びつけられなかったことが、今、二十歳の理人の、深い後悔になっている。

 あの時点で、茜音が置かれていた、真実の状況を聞き出せていれば。

「家にいられない」と彼が泣き出したほんとうの理由を、知り得ていれば。


 二十歳の今でも、理人は考える。

「殴られたりした、わけじゃない」と茜音が言ったときに、もしも、自分が。

「じゃあ、おじさんから、何をされたんだ?」というクエスチョンを、投げかけていたなら。


 もしかしたら、あの最悪のできごとは、起こらなかったかもしれない──と。

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