第32話 16歳──事件(3)

     *


 ……お母さんが再婚して、あいつの家に住むことになってから。

 部屋をもらったんだ。玄関を入ってすぐのところの四畳半。

 自分の部屋なんて、初めてだったからさ。……俺、嬉しくてさ。

 そんで、引っ越してから、一ヶ月ぐらいたったころ……だったと思う。

 夜になると、あいつが、その四畳半の部屋に、やってくるようになったんだ。

 最初は、服の上から、さわられるだけ、だった。

 だけど、だんだん、服の中に、手が入ってくるようになって。……体を押さえ込まれて、やめてって言っても、やめてくれなくなって。

 タオルを口に突っ込まれて、声が出せないようにされて──気持ち悪いことをされはじめたとき。

 一階の、あの位置にある四畳半を、どうして、俺の部屋として与えられたのか、ようやく気づいたんだ。

 二階の、あいつとお母さんの部屋から、その四畳半が、もっとも遠い位置にあった部屋だから。

 最初から、仕組まれてたんだ。お母さんに、気づかれないないように。

 ……そのとき、何がなんでも、あの家を出なくちゃって、思った。

 お母さんに言えば、どうなるか、わかってるよな、と脅された。誰のおかげで、この家で暮らせてるんだよ、とか。

 あいつのことを、「公務員でよかった」って喜んでた、おばあちゃんのことも考えた。

 だから、俺が我慢すればいいんだって思ってたけど、……もうダメだ。もうこれは、家を出なきゃだめだって、決めたんだ。

 お母さんには、絶対、知られたくなかった。……知ったら、お母さんがおかしくなっちゃうから、俺は、黙ってたほうがいいって。

 一人暮らしするには、お金が全然足りないから、学校をやめて、働くしかなかった。

 高校を辞めるとき、お母さんだけが泣いて反対したけど、あいつはむしろ、しかたがない、好きにさせてやれって、言ってた。

 先月。……バイト代を貯めて。ここで、一人暮らしを始めて。

 やっと、あの悪魔から逃げられたって思った。

 もう、あんな、気持ち悪くて吐きそうなこと、されなくて、すむって。

 でも、さ……昨日の夜。

 俺ね。電気消して、寝てたの。次の日、早朝からバイトだから。

 夜中に、何か気配を感じて、ふっと目が覚めたら──あいつがいたの。この部屋に。

 お母さんにあずけていた合鍵を使って……あいつ、この部屋に、入り込んで来てたんだ。

 あいつがはずしたベルトで、腕をしばられて、口にタオルを押し込まれて、……夜通し、ずっと……ひどいこと、された。

 あいつの家にいたときよりも、ひどかった。

 痛くて、苦しくて、このまま、殺されちゃうかもって思うくらいの。

 「逃げられないからな」って、あいつ、笑ってた。高校を辞めるのを、あいつが反対しなかったことの意味も、ようやくそこでわかって、絶望的な気持ちになった。

 もう無理だって、思った。

 ようやく逃げられた、もう大丈夫だって思ったけど。

 お母さんに、合鍵を預けた俺が、バカだった。あいつが使うなんて、思いもしない、俺がバカすぎた。

 逃げられない。どこへ行っても。

 どこへ行っても。


     *


「通報した楠田理人くんって、きみか?」

 救急車が到着して、やってきた救急隊員三人で、そのうち、理人たちと会話を交わしたのは、一番年かさの男性だ。

「はい、僕です」

「この子は?」

「僕の、友達、です。柏木茜音……」

 理人がそう答えると、担架に乗せられて、目を閉じたままだった茜音が答えた。

「高橋……茜音、です。僕、苗字が、変わったので……」

「怪我は? この……左腕だけ、か?」

 血だらけのタオルごと、上腕部分をバンテージで止血しながら救急隊員が尋ねた。

「……はい」

 茜音が答えた。

「どうやって、この子、怪我したんだ? ──君がやったのか?」

 隊員の目が、理人に向けられていた。

「ち、ち、ちが……」

 そんなふうに言われるとは、思いもよらなかったので、理人の言葉がもつれた。

「理人じゃなくて、僕、です……」

 茜音が答えた。

「僕が、自分で……カッターナイフで、やりました」

「なんで、そんなことをしたんだ」

 怒鳴ったわけではなかったが、隊員の声は、低く、怒りに満ちて聞こえた。

 だって、それは、と思わず、理人は言いかけたが、そのとき、茜音が。

 担架に乗せられていた茜音の右手が動いて、そっと理人の、オーバーの袖をつかんだのだ。

 さっきまでぐったりと閉じられていた茜音の目が、そのときだけ、ひらかれていて、そして。

 理人だけをじっと見つめて……彼の唇が動いた。

 ──い・わ・な・い・で。

 五文字分の、その言葉を、口の形と息の音だけで示して、茜音は、再び目をつぶってしまったのだ。



 ……それから先のことを、理人は、あまりよく覚えていない。

 特例中の特例だぞ、と釘を刺されながら、救急車に一緒に乗るように指示された。本当なら、家族でさえも、救急車には同乗できないのだそうだ。

 救急車に乗っていたのは、たぶん、ほんの数分だった。何か会話を交わしたのかもしれないが、覚えていない。いや、誰とも、どんな会話も交わさなかった気がする。救急車の中の無線を使って、隊員たちの一人が、搬送先の病院と逐一やりとりしていたことを、ぼんやり記憶している。

 夜間の救急搬送口と言われるところから、救急隊員たちと一緒に、ストレッチャーに乗せられた茜音にくっついて、病院の内部に入った。

 「処置室」という表示がある部屋に、すぐに茜音だけが連れていかれて、理人は、その側の廊下のベンチですわって待つように言われた。

 非常用出口を示す誘導灯のプレートと、自販機の照明以外、明かりがついていない廊下。

 自分の手を見ると、茜音の血が、たくさんついていた。──暗くてよくわからなかったが、理人がそのとき着ていた、紺色のオーバーにも、おそらく、彼の血液がついていたに違いない。

 茜音は。

 あの話の内容からして、茜音は。……

 ──くそ。

 悔しさ、怒り、腹立ち。それから、悲しみ。

 拭ってもぬぐっても、涙があふれた。噛み殺そうと思っても、嗚咽が唇から漏れてしまうのが、止められなかった。

 なんで、茜音が。そんな、ひどいことを。

 どうして、そんなことをされてたのに、もっと早く、俺に言ってくれなかったんだろう?

 どうして?


     *


 廊下の曲がり角の向こうから、複数の大人の足音と、低い話し声が聞こえてきた。

 その話し声のうちの一つが、よく聞き知ったものであると気づいた瞬間、思わず、理人はベンチから立ち上がった。

「お……お父さん」

 理人の父がそこに立っていた。

 そのコート姿を目にしたとたん、感情があふれて、たまらなくなった。

 理人は走っていって、その大きな胸に飛び込んだ。

 ──お父さん、お父さん……。

 バカみたいに、何度もそう繰り返しただけで、他のことは、言葉にならなくなった。

 十六歳の理人は、声をあげて泣いた。

 記憶にある限り、父親に抱きついて、小さな子どもみたいに泣きじゃくったのは、後にも先にも、あのとき一度きりだ。

 夜の病院で、父の姿が、がっしりとした大木のように見えた。

 父のチャーコルグレイのコートに、雪がついてた。その父の腕が、自分を強く抱きしめてくれた。

 こういう大きな樹木のような存在を──自分を無条件に守ってくれて、たとえ深夜の病院にでも、息子のためとあらば駆けつけてくれる存在を。

 茜音は、ずっと持たないまま、悪魔のような男に、ひどいことをされ続けていたのだ。

「お父さん、あ、茜音が……茜音がね……」

 茜音から打ち明けられた話を、父親に告げずにはいられなかった。

 その男から、茜音が受けていた仕打ちは、あきらかに犯罪で、言わないでほしい、という茜音の言葉を無視してでも、大人に助けを求めるレベルのできごとだと、十六歳の理人にも、はっきりと理解できたからだ。

 父は、理人の言葉に、きちんと耳を傾けてくれた。──途中から、みるみるうちに父の顔色が変わっていくのがわかった。


     *


 その初雪の日から、一週間、理人は高校を休んだ。

 「ショックを受けているだろうから」と両親が相談して、そのようにとりはからってくれたらしかった。

 まる二日間くらいは、自宅のベッドで眠りこけていたと思う。──ダメージを受けた精神は、睡眠を必要としていたようで、ただひたすらに眠った。

 目が覚めていても、胎児のように体をまるめて、自分のベッドの中で、ぼんやりとしていた。

 茜音は、どうしているだろう。

 怪我は、どうなっただろう? 痛いだろうな。無事でいるだろうか。今、病院にいるのかな。……泣いたりしていないかな。

 茜音のお母さんは、どうしているだろう。──そして、茜音を傷つけたあの男は、どうなっただろうか。

 ベッドの中から、茜音の携帯に電話をかけてみたが、何度かけても、「おかけになった電話番号は、電源が切られているか、電波の届かない場所に……」という例のアナウンスが流れた。

 おそらく茜音は、病院の中にいて、スマホの使用が制限されているんだろうな、と思った。テキストメッセージもいくつか送ったが、まったく既読にならない。

 大きなショックを経た理人の心の中で、あの夜のあとの一週間のことは、なんだか、すべて夢の中のできごとだったように、ぼんやりしている。レンズの焦点があわないカメラの、ファインダーをのぞきこむような気持ちで、ピンボケの世界と対峙していた。

 その後、両親に付き添われながら、警察や、病院や、福祉サービスの大人たちに事情を聞かれた。理人が知っていること、茜音から打ち明けられた内容は、できるだけ話した。

 その中で、ある医師との面談でのやりとりが、理人の印象に強く残っている。「児童精神科医」という肩書きの、四十代の女性医師だった。

「理人くんに、お願いがあるの」

 医師であるのに、白衣を着ていない彼女は、率直な口調で言った。

「茜音くんは、今、ちゃんと安全なところにいるし、怪我もこれから、順調に回復していくはずです。だから、心配しないで……彼とは、しばらく連絡を取らないことを、お願いしたいの」

「──どうして、ですか」

「茜音くんは、少なくとも、三ヶ月から半年は、入院が必要な状況だと判断しています。その間、外部との連絡を避けてもらっているから」

「……三ヶ月から半年」

「ええ」

「そんなに、あの傷……ひどかったんですか?」

「いいえ、彼の入院は、腕の怪我のためではないのよ、理人くん」

 女性医師は、落ち着いたアルトの声で続けた。

「ラッキーなことに、茜音くんの怪我は、神経の損傷もなかったし、縫合後の経過も順調だから、それほど心配もしなくていいと思う。……でも」

 逆接の接続詞で、いったん言葉を止めて、彼女は、理人の表情をじっと見守っていた。

「茜音くんの入院はね、彼自身の命と心を守るためのものです。……だから、外部との連絡を、ある程度、制限しなければならないような種類の施設に、彼は入院しているの」

 ──彼自身の、命と心を守るため。

 そんな表現で形容される病院のことを、理人はそれまで聞いたことがなかった。

「お友だちの茜音くんが、自分で自分の体を傷つけてしまった状況を目の当たりにして、理人くんの心も、大きな衝撃を受けていると思うの。……あなた自身が気づいていなくても、心は、大きなダメージを受けているはず」

 だから理人くんは、あなた自身の回復に努めてほしい。

 茜音くんのことも、心配でしょうけれど、その心配は、病院の先生たちにまかせて。

 理人くんは、あなた自身のことだけに集中したほうがいいと思っているの。

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