第33話 16歳──事件(4)
*
茜音は、「外部との連絡を制限するような施設」にいる、ということを、医師から聞かされた、ほんの二日後。
その、当の茜音から連絡が来た。
平日の午後二時ごろのことで、本来なら、高校で授業を受けている時間帯なのだが、両親の判断で、一週間、高校を休んでベッドのなかにいた理人は、その電話に出ることができた。
──それは、見知らぬ電話番号からかかってきた。
だが、なんとなく、理人は、その通話に出る前から、茜音からの電話であるような気がしたのだ。何の根拠もないのだけれど。
「……はい。楠田ですが」
電話に出ると。
「理人?」
応答したのは、まぎれもなく、茜音の声だった。
「茜音? 茜音か?」
待ち望んでいた、茜音からの電話だったから。
「茜音、大丈夫なのか? 今、どうしてる? どこに、いるんだ?」
そんなふうに、理人は、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてしまったのだが。
「──……」
茜音からは、答えが返ってこない。
ただ、彼の息の音が聞こえて、それが震えているので、彼が泣いていることがわかった。
「茜音……?」
泣いているせいで、ちゃんと、喋れないでいる茜音。
……数日前の、あの──アパートに駆けつけたときの電話のことを、ありありと思い出した。
「この番号、どうしたの? 茜音の電話じゃない、よな?」
「……うん。……お母さんの電話を、使ってる」
「お母さんの?」
「うん。だって、俺の電話、……この病院に入る時に、取り上げられたから」
──「外部との連絡を制限するような施設」という、女性医師の声が耳によみがえった。
そして、そう茜音が答えたあたりから。
理人は、茜音の声が、今まで聞いたことがないほど、奇妙な興奮状態になっていることに気づいた。
その口調が、声が。……いつもの茜音とは、異なっている。
何かに対して、ひどく、腹をたてているのか、あるいは、苛立っているのか。
「どうして理人、警察の人に、あいつのこと、話したの?」
悲鳴のような声だった。
実際には、理人は、自分の父親に打ち明けただけ、父は、救急病棟の茜音の担当医師たちに伝えただけで、そのあと、病院の医師たちが、警察や行政に話をつないだと思うのだが。
「どうしてって……そうしたほうがいいと思ったからだよ」
「けど、俺、言ったよね? 理人に、言わないでって、言ったよね?」
茜音の声の語尾が、悲鳴のように跳ね上がる。
──おかしい。……すこし考えれば、理人が、茜音自身のために、茜音を助けたくて、大人に話したのだと、理解できるだろうに。
「ちょっと待て、茜音。……おまえは、俺が、誰にも言わないほうがよかったのか? だって、あいつに、……茜音がされていたことは、とてつもなく、ひどいことで──」
「だって、そんなこと、俺は頼んでない!」
理人の言葉を、途中で、悲鳴のような茜音の声がさえぎった。
「あいつが──あいつが、俺にしてたことを、お母さんが知ったら、そうしたら……」
こんな、激昂している茜音の声を。
「お母さんが……お母さんが……お母さんが……!」
俺は一度も、聞いたことがない。
「……茜音?」
彼の名前を呼んだ。……それ以外の言葉を紡げなくなって。すこしでも、茜音に、いつもの茜音を取り戻してほしくて。
「理人には……理人には、わかるもんか……あの家に住んで、ちゃんとしたお父さんとお母さんがいて、雨の日でも雪の日でも、理人が困っているときには、親が車で迎えに来てくれて」
──ああ、茜音。
「家に帰ったら、夕ご飯がテーブルに並んでて……そんな家に住んでる理人に、俺の気持ちなんか、わかるわけがない」
おまえは、そんなふうに。
……俺のことを、考えていたの……か?
「理人にはわかるもんか。俺が、どんな気持ちで、どんな気持ちで、あいつのことを、お母さんに知られないようにしてたか……お母さんを守りたかったから、ずっと、お母さんに、言わずに、我慢してきたか!」
電話の向こうの茜音が、叫び始めた。
それは、金切り声の、歌みたいだった。意味のある言葉の形が、溶けてなくなってしまったような、人ではないもののような叫び声だった。
喉からほとばしる、彼の苦しさ。
壊れて、引き裂かれていく精神の悲鳴。
「茜音……ごめん。俺は……」
おまえを苦しめるつもりじゃなかった。
理人がそうつぶやきかけたときに、電話の向こうが、突然、慌ただしくなった。
何人かの大人の声が、入り乱れて聞こえてきて、何かが、誰かが、暴れているような音がして──そんな音が、数秒、続いて、そのあと、突如、通話が切られた。
スマホを手にしたまま、理人は、泣いた。
やりきれなくて。悔しくて。
腹立ちの感情もあった。憤りの感情も色濃く感じていた。
茜音に対しての怒りではなかった、自分への怒りかもしれない。
根源的には、むろん、あの男への怒りなのだけれど──それだけじゃない、もっと深い、もっと狂おしい、何に対しての怒りなのか、わからないけれど、強い、怒り、憤り。
それが涙になって、自分の頬を濡らしている。
──ああ、神様。
どうか、お願いです。心から、お願いです。
茜音をたすけてください。茜音を守ってください。
茜音がほしくてたまらなくて、手にできなかったものを。
俺は、確かに、この家に生まれたときから、与えられていた。空気みたいに当たり前のものとして。
だけど、俺は。
茜音のことを守りたかった。守ってやりたかった。
茜音が、好きだったから。
──茜音。
茜音は、お母さんを……たったひとりの家族の、お母さんを。
おまえなりのやりかたで、守りたかったんだね。
俺が、茜音のことを、守りたかったみたいに。
*
茜音を傷つけていたあの男は、逮捕されて、懲役刑となったことを、理人は父から聞いた。
あの初雪の日から、半年以上が経っていた。
茜音とのやりとりは、あの電話が、最後になった。
何度か、彼に連絡をしようと考えたが、自分のテキストメッセージのアカウントが、彼からブロックされていることに気づいたときに──ああ、もうだめだ、と思った。
これが、茜音の、俺への思いなんだな、と。
もう、連絡をしないでくれ、という茜音の気持ちなんだ、と。
季節がめぐり、年月が流れて、その季節のときどきに、理人は、茜音のことを思い出した。
雪がゆるみはじめた春、雪庇が落ちる音が家中に響くとき、夏の終わり、若いススキの白い穂が風にゆれる景色を目にしたときに。
冷たい雨が降りそそぐ九月の夜、比宇可の町に根雪が始まった日にも。
茜音の整った横顔、笑う声、すこし舌足らずみたいな言葉づかい、水色のマフラーを貸したこと、華奢な立ち姿、中学のダサい紺色ジャージ、閉じられたまぶたの睫毛が長いこと、運動靴、若草色のフーディ、彼のすらりとした指さき。
それらを、ありありと思い浮かべて、会いたいと思ったり、声を聞きたいと願ったり、もう、友達としても彼に会えないんだな、と泣きたくなったりした。
高校を卒業した理人は、札幌の大学に入学し、すでに社会人になっていた従兄の俊一と、札幌のマンションで暮らし始めた。もっとも、俊一のほうは、かねてからつきあっていた恋人と一緒に新居で暮らすために、半年ほどで、そのマンションから出ていったのだが。
大学一年の正月、比宇可に帰省したとき。──自分の母から、茜音の母が、交通事故で亡くなったことを聞かされた。そのときには、さすがに、茜音に連絡しようか、と本気で考えた。
ひとりで泣いているんじゃないか、なにか、手助けできることがあるんじゃないか、何もなくても──一緒にそばにいてやれるとしたら。
茜音のそばに。
けれど、結局、実行に移せなかった。
「理人なんかに、わかるわけがない」と、茜音の最後の電話で言われたことが、棘のように理人の心に刺さっていた。
そう、確かに──茜音が持っていなかったもの、欲しかったものに、理人は恵まれて育った。
そして、そんな自分がそばにいることは。
……かえって彼をさびしくさせてしまうのかもしれない。
あるいは、自分には、茜音の経験してきた淋しさや悲しさ、苦しみや痛みを、ほんとうには、理解できないのかもしれないのだけれど。
でもさ、茜音。
俺は、おまえのこと。……わかりたかったよ。
そばにいて、茜音のことを、ささえてやれる存在でありたいと──ずっと、願っていた。
好きなんだ、茜音。
それは俺の真実だと、言い切れるから。
だから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます