第34話 19歳 3年ぶりの声──理人


 マンションの四階のベランダに面した窓から見下ろすと、札幌の街並みは薄墨を流したような色合いで、建物の輪郭が溶けている。

 その街並みのラインに、接するほど西の空の低い位置に、白く、ほそい月が出ている。

 三月の終わりになると、札幌の街並みには、もうほとんど雪がない。

 理人の故郷の比宇可には、まだ今の時期だと、溶け切らない雪が、道のそこかしこに、人の背丈ほどの高さで積み上げてあるはずだが。


 大学の長い春休み、比宇可に帰ろうかとも思ったが、研究室当番だのバイトだのが、いろいろと忙しく、理人は札幌に残ることにした。

 一人暮らしの気楽さで、洗濯をする曜日も時間もまちまちなのだが、今日は、日没したばかりのこんな時間に、洗濯物を干している。

 洗濯カゴから取り出した、シャツだのタオルだのを、パンパン! と広げて、ピンチに挟んで干していく。──理人はわりあい、こういう生活の単純作業をこなすのが、好きである。

 ジーンズの尻ポケットに突っ込んであったスマホが、着信を知らせて震えはじめたとき、理人には何の予感もなかった。

 母親かな? と思った。理人の高校生の妹に、パソコンを買ってやることにしたから、何を買えばいいのか、教えてほしい、と言われていた。その件かも、と思いながら、ポケットからスマホを取り出して、そして。

 電話をかけてきた相手の名前を見て、思わず息を飲んだ。

 茜音だ。

 柏木茜音から、電話がかかってきたのだ。

 この三年間というもの、音信不通だった。何度も、電話をかけようか、やっぱり、やめたほうが、いや、それでも、と逡巡し続けてきた相手だ。

 通話ボタンを押そうとして、焦ったあまりに、スマホを取り落としそうになる。

「はい。楠田ですが」

 できるだけ普通を装って、電話口に出たら、そんな四角四面の物言いになる。

「あ、あ、あの。……お、俺、あの」

 電話口から聞こえてきた声。──確かに、茜音のものだった。

 三年ぶりの。

 ほんのすこしだけ、舌足らずみたいな喋りかた、それも記憶にあるとおりだ。

 そっちからかけてきたくせに、なんだかやたら焦っているところも、茜音らしい。

「茜音?」

 だから、理人も。……三年前と同じように、彼の名前を呼んだ。

 自分の意志とは関係なく、勝手に舌と唇と喉とが、その音をつむいだみたいに。

「茜音だろ?」

 ずっと、声を聞きたかった。何度も電話しようと思った。でも、できなかった──長い、片想いの相手。

「うん。……そうだよ」

 そう茜音が答えたとき、理人には、自分の心のなかに黒々と横たわっていた三年間分の時間が、きれいにかき消えて、なくなっていくのがわかった。

「久しぶりだな」

 茜音がいる夜と、自分がいる夜が。

 今、確かにつながる。

「……だよね。たぶん、三年ぶり、くらい」

 三年の年月を超えて、二人の夜がつながっている。


 マンションの四階のベランダに面した窓から見下ろすと、札幌の街並みは薄墨を流したような色合いで、建物の輪郭が溶けている。

 その街並みのラインに、接するほど西の空の低い位置に、白く、ほそい月が出ている。

 そうして、まるでなにかの奇跡のしるしであるかのように、理人と茜音の夜をつないでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る