第42話 言葉で表しきれない

 そのとき、オーバーのポケットのなかのスマホが鳴りはじめた。

 午後九時ちょうど。理人からだ。

 律儀な彼らしく、一分の遅れもなく、ぴったりの時刻でかけてきた。

「もしもし。……茜音?」

 ああ、理人の声だ。

 音の階段を、一段、とん、と降りたように低い、彼の声。

「うん、俺。……」

 小走りになりながら電話に答えたら、息が上がっている。

「あ? 茜音、今、どこにいるんだ? 外?」

「うん」

「どうしたの? 息が切れてる」

「うん、走ってるから」

 正確には、小走り程度、だが。

「……茜音、外を、走ってるのか? こんな時間に」

 怪訝そうだ。

「うん、そう」

 ああ、むかつく。

 赤信号で、ひっかかった。

「なんで?」

「理人に会いたくて。今、……もうじき、おまえの家につくとこ、なんだけど」

 息を切らせながらそう答えて。

「俺の……? 俺の家に?」

 理人からそう返されたら、直接、会いに行くという、なんだかストーカーじみた行為が恥ずかしくなった。

「だって、理人が、全然、電話に出てくれないから……俺」

 必死に言い訳を試みる。

「俺、理人にあいたくて」

「……茜音」

「理人に、会いたすぎて、俺、我慢できなくなっちゃって、だから」

 信号が、青に変わった。

「だから、理人に会いにきたんだ」

 スマホを耳にあてがったまま、走りはじめる。

 夜空の高いところから、白い雪が落ちてくる。

 つめたい風に舞って、茜音の髪に、オーバーに、アスファルトの上に、ふわりと落ちて、すぐに溶ける。

「……」

 電話の向こうにいる理人からは、無言だけが返されたので。

「お……怒ってるの、理人?」

「怒ってない。……驚いてるだけ」

 低い声がぶっきらぼうに返ってくる。

「うそ。怒ってるじゃん、理人」

「怒ってないよ。……今、どこまで来てるんだよ、おまえ」

「自販機が並んでるとこ」

 理人のマンションのごく近くに、自動販売機が五台ほど連なっている場所がある。茜音はそこにさしかかっていた。

「わかった。じゃあ……もう、電話、切るから」

「うん」

「待ってるから。……早く来い、茜音」

 そうして彼が通話を切った。

 早く来い、茜音。

 理人の低い声が、耳の中でリフレインして、心に灯りがぽっと灯ったみたいになる。

 角を一個曲がれば、理人の住むマンションだ。

 エントランスに入って、オートロックを解除してもらうために、部屋番号のボタンを押す。四〇一号室。

「……どうぞ。上がってきて」

 インターフォンから、理人の声が聞こえた。

「うん」

 ああ、もうすぐ。

 もうすぐ、あえる。理人に。……

 あたりには誰もいなくて、エレベーターに乗り込んだのも、茜音ひとりだった。四階まで上がる。扉がひらくと同時に、走りだした。

 理人の部屋は、通路の一番奥だ。しずかな通路だから、近隣の住人に音が響いてしまうのを恐れて、スニーカーを履いた足を、しのび足で──でも、できるだけ、早く。

 四〇一号室のドアの前に立って、チャイムを押そうとしたら、それより先に、がちゃりと内側からドアが開けられた。

 パジャマ姿の理人が立っていた。茜音を待っていてくれたのだろう。

 だけど、そのパジャマが。

 紺と白のストライプの、ネルのパジャマは、あの朝──茜音が借りて、着ていたものだ。

 茜音には大きくて、ぶかぶかだったパジャマが、背の高い理人が身につけていると、肩幅も丈も、きちんと体に合っている。

 あたりまえだ。本人のものなんだから。

「理人」

「茜音」

 お互いの名前を呼び合った声が、ぶつかった。これまでの二人みたいに。あの朝と同じに。

 玄関のたたきで、理人とものすごく至近距離で向かい合って──あの朝と、逆だ、と思う。

 パジャマを着ているのが理人で、オーバーを着ているのが茜音。

 先に体を動かしたのは、今度は、茜音のほうだった。オーバーの腕を、理人の首の後ろに回して、抱きついた。

「……理人」

 名前を呼んで、口づけた。

 目を閉じたら、甘い音楽を体の中に流されたようになった。──あの朝のキスと、同じで。

 理人の腕が背中に回されたのを感じた。それだけじゃなくて、彼の右手が、茜音の頭の後ろに回されて、もう少し、顔が上向くように、角度を変えられる。

 ああ、そうか。──もっと深いキスが、ほしいのか。理人も。

 誘ったら、すぐに追いかけられる。からめて、からまされて。

 もっとほしいとねだると、俺だって、というように、深い場所まで、ふれあわせてくる。

「……はっ……」

 唇が離れたすきに、茜音の喉から、小さな声がもれた。

 まだキスだけなのに、こんな。もうキスだけで、こんなに。

「……理人、あいたかった」

 ほろりと心から、言葉がこぼれた。

 唇をいったん離して、パジャマの体をぎゅうっと抱きしめる。

 理人の体、理人の肩、胸、背中、におい、かたち、色、感触。

「俺も」

 理人の低い声が、答えた。

「俺も茜音に、あいたかった」

 抱きしめていて、抱きしめられているから。

 その声が、彼の胸の中で共鳴しているのがわかる。

「じゃあなんで、俺の電話に出てくんなかったの、理人」

「……フェイドアウトしたくて」

 ──ああ、俺は。

「ひど。……じゃあ、焼肉の約束は?」

 こうやって、理人の声を、耳と体の両方で感じているのが好きだ。

「……言ったときから、守れない約束だと思ってた」

「ひどすぎ」

「だって」

 理人の声が、彼らしくなく、かすれた。

「茜音と一緒にいたら、俺、我慢がきかなくなって、茜音に……手を出しちゃうと思ったから」

 泣いているのを、必死に、我慢しているみたいに。

「茜音は、俺のこと、友達として信じてくれてるのに、その俺が手を出したら、おまえ……」

 おまえの心が、壊れちゃうだろう?

 ──理人は、そう言った。泣きそうな声で。

 だから茜音は、そのとき、理人が、何を案じてくれていたのかに、はっきりと気づいたのだ。


 理人。

 おまえは、俺を──守ってくれようとしたんだね。

 傷ついた、あの経験の記憶から。その痛みから。


「──そっか」

「……ん」

「ありがとう、理人」

 俺を大切にしてくれて。守ろうとしてくれて。

 茜音は笑った。……笑いながら、ちょっとだけ、泣いた。

「俺ね。……今まで、自分で自分の心の動きに気づけなかった。理人のこと、友だちとして、大好きなんだと思ってた。でも、違ってた。俺は……、俺は……」

 この気持ちを表すのに、どんな言葉も、足りない気がする。

 もっと強くて、もっとあざやかで、もっと美しい、光のような、なにかじゃないと。

 だけど。言葉にしないと、伝わらないから。

 もどかしくても、足りなくても、言葉に想いを乗せる。

「俺は、理人が好きだ」


 茜音がそう告げると。

 理人は抱擁を解いて、少し体を離すと、茜音の顔を見つめた。

「茜音」

 名前を呼んだ彼は、微笑んでいた。木漏れ日のように、やさしい微笑みだった。

「俺も、ずっと茜音が好きだった」

 そうして、キスをくれた。

 言葉で表しきれない気持ちはキスで伝えればいいと、茜音に教えてくれるような口づけだった。




 

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