第41話 夜を駆ける
5
最初は、夜九時になったら、自分のアパートから、理人に電話をかけるつもりでいた。
スピーカーフォンを使って「あとは、お若い二人で、夜九時に」と告げた俊一のシナリオどおりに──夜九時になったら、理人に電話をしよう、と。
けれど、茜音一人でアパートに帰って、頭の中でぐるぐる考えるうちに。
「電話なんかじゃ、我慢できない」という気持ちになった。
あいたい。顔を見たい、声が聞きたい。
家庭教師が終わってしまったら、理人に会うチャンスも、なくなってしまった。それまでは、週に一回、必ず理人に会えていたのに。
あいたい。理人にあいたい。
──理人が好きだから。
夜八時半。
オーバーを着て、マフラーをして。
ポケットにスマホをつっこんで、アパートを出た。
駅に向かって早足で歩く。地下鉄で、理人の住む場所へ向かうために。
このアパートを決めたときだって、茜音の頭のなかにあったのは、理人のことだった。「このあたりは、北大生の方が多いですよ」という、不動産屋の一言が決め手になった。
町長の長男が北大理学部に合格して、今は札幌に住んでいるということを、茜音は、田舎町の噂で知っていた。北大に近い場所に部屋を借りれば、きっと理人の住む場所の近くになると思った。理人の近くに。
駅に向かって歩く。足早に。月のない夜空、雪の降る前の季節。
冷たい空気がはりつめている。この冷え方だと、たぶん、零下を切っているだろう。十四歳から北国で暮らして、そんなことも肌の感覚でわかるようになった。
──最初に茜音くんに会ったとき、俺、きみに「ずっと会ってみたかった」って言ったでしょ。それ、どうしてだか、わかる?
昼間、ハンバーガーショップで耳にした、俊一の言葉がよみがえる。
今夜九時に理人に電話をかけるお膳立てをしたあとで、理人の従兄は、さまざまなことを解き明かしてくれたのだ。
──それはね、茜音くんが、理人の片想いの相手だから。……中学生の理人が、好きな子の名前って、教えてくれたのが、柏木茜音くん、だったんだ。
俊一からそう聞かされて、茜音は、何も言えなくなった、黙り込んでしまった。
でも、心のなかに、ひとつの映像が浮かんだ。……中学の春休み、理人の部屋で宿題をしていたら、どうにも眠くて眠りこけてしまったときのこと。
ふと目をさましたら、勉強していたはずの理人が、寝ている茜音の顔をのぞきこんでいた。
彼は何もしなかった。ただ、じっと茜音の寝顔を見つめていただけだった。
だから茜音も、寝たふりを続けた。
理人に寝顔を見つめられるのが、ちょっと恥ずかしくて、でも嬉しかった。どきどきしていた。
……寝たふりしてるの、バレないかな、バレるかな。
理人、なんで見てるんだろう、俺の顔。なんでかな……。
──それに、あいつさ、カワイイとこもあるんだよ。茜音くんの家庭教師をはじめて、きみが家に来ることになったら、ふたりでお揃いのマグカップ、買っちゃったりしてさ。
くくく、と俊一は、思い出し笑いをした。
くすんだ水色と、クリームイエローの、色違いでお揃いの陶器。
そういえば、あのカップでココアを作ってくれて。理人が、熱いココアを手にこぼしてしまったことがあったっけ。
ヤケドを心配して、茜音が理人の手を持って、水で冷やしたら、なぜか彼は、顔を真っ赤にしてしまった。
耳まで赤くなるほど、だった。動きも、視線も、ぎくしゃくして。
──理人のやつ、もう、茜音くんと二人っきりで、密室のなかにいるのが、無理なんだって。
──む、無理? そんなに俺のこと、嫌いなんですか、理人?
──ちがう、逆だよ、逆。茜音くんと一緒にいて、自分の心を縛りつけておくのが、苦しいんだとよ。
──え……。
──二人きりだと、茜音くんに、友達以上のことを、求めてしまいそうになるから……それを我慢してるのが、もう限界なんだって。
「友達以上のこと」という言葉を、俊一に言われて、反射的に、朝の玄関でのあのキスを思い浮かべた。
あれは……理人が、「我慢しきれなかった」できごと、なのか。
星空の帰り道で、唇のはしっこだけをつりあげるようにして、苦笑いしていた理人。
あの朝のキスを、なかったことにしてほしい、と言っていた理人。
別れ際に、茜音の髪に、指を差し入れて、くしゃくしゃ、くしゃりと、三回、かきまぜて。
茜音は受かるよ、と理人は言ってくれた。ここまで努力してきたんだから、茜音には、神様と俺がついてるって。
俺がついてるって、言ったじゃないか、理人。
理人のバカヤロー。
ちくしょう、会いたい。
あいたくてたまらないよ、理人に。
駅に着いた。明るい構内の改札を抜けて、地下鉄のホームに急ぐ。
階段とエスカレーター。行き交う冬服の人々。
地下鉄に乗る。八時四十五分。理人の住む駅まで二駅。
……理人。
おまえは、友達以上のものを求めてしまうっていうけど……それは、俺だって同じ。
俺だって理人から、もう、友達以上のものがほしい。
目的の駅について、エスカレーターと階段で、地上まで出る。改札をぬけて、駅の構内から、冬の夜の外へと足を踏み出す。
……あ。
雪だ。今年初めての。
夜の風に、白いものが舞っている。──初雪だ。
理人に早く会いたくて、我慢できなくなって、茜音は走り出す。
駅前の雑踏の中だから、全速力で、というわけにはいかないのがもどかしい。だけど、できるだけ、早く。
はやく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます