第11話 水曜日の約束

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 約束の水曜日。

 地下鉄の駅から、地上へと向かう階段を登っているときに、茜音のオーバーのポケットで、スマホがメッセージの着信を知らせて震えた。

 冬の夕闇がはじまりかけた時刻。

 スマホを取り出してみると、理人からだ。


「ごめん、研究室の用事が長引いて、まだ、待ち合わせの場所に行けない」

「さきに、うちに行って、待っててくれないか」

「ほんとにごめん」

 そんなメッセージだった。


 んん?

 どーゆーこと?


 理人のマンションはオートロックだから、鍵がなければ、部屋はおろか、マンションの建物に立ち入ることさえできない。そして、あの朝、茜音に預けてもらったスペアキーは、理人に言われていたとおり、メールボックスの中に入れた。


「俺、鍵、持ってないよ」


 そう返信したあと、茜音が画面を見つめているうちに。

 理人が、メッセージを入力しているマークが画面に表示されて、矢継ぎ早に彼からのメッセージの吹き出しが出てきた。


「今、従兄の俊一が、泊りに来てて、家にいる」

「茜音が勉強しにくることを話してあるから、鍵は、俊ちゃんが開けてくれるはず」

「先にうちに行って、待っててくれる? 六時か六時半には、俺も帰れると思うから」


 俊一という理人の従兄に、茜音は、会ったことがない。

 けれども彼の話は、これまでに理人との会話のなかに、たびたび出てきていた。去年まで、理人は、その従兄と一緒に暮らしていたからだ。

 七歳年上だというその「俊ちゃん」は、結婚を機に新居に引っ越したとかで、だから理人は今のマンションに一人で暮らすようになったのだ。


 ──俊一さんって、仕事は何をやってるひとなの?

 そう理人に聞いたら、「弁護士」という答えが返ってきた。

 ──うわ、すごい。エリートじゃん。

 ──そう、エリートなんだよね。

 理人は、唇のはしっこだけを、かすかに釣り上げるようにして笑った。……それは彼の苦笑い、である。

 ──東大法学部に現役合格して、司法試験にスパッと合格しちゃうくらいの、すっごいエリート、なんだ。

 ……確かにそれは、すごい。

 ──伯父さんにしてみたら、自慢の息子だっただろうけど……でも。

 逆接でふいに言葉を切って、理人は、そのさきを続けなかった。

 ……なんとなく、「なにか」が、その逆接の続きにあるような感じがした。

 ──でも、俊ちゃんは、すごくいいひとだよ。

 しばらくして、思い直したように、理人は言葉を続けた。

 ──父方のイトコって、総勢八人いるんだけど、俺と俊ちゃんだけが男で、あとはみんな女の子なんだ。……そういうのもあって、年齢が離れてるけど、小さなころから、ずっと仲良くしてもらってたから。

 ──ふうん。

 ──自分が決めたことは、着実に行動して、やりとげる。そういう行動力とか、意志の強さとか。……そういうの、俺、俊ちゃんの生き方をお手本にしてるとこ、結構あるような気がする。

 そう口にしたときの理人の口調は、あたたかな感情を感じているひとのそれだった。


「わかった」

「じゃあ、今からコンビニでごはんを買って、直接、理人の家に行くね」

 理人からのラインに、そう返信すると、「OK, thanks!」というスタンプが返ってきた。

 ……ってことは。

 理人のマンションへとアスファルトの上を歩きながら、茜音は、心の中でつぶやいた。

 今日は、あのマンションに、理人とふたりきり、というわけではなくなる。

 そのことに、なんだか、すこしがっかりするような──いや、むしろ、ほっとするような気持ちになった。

 「がっかり」なのか、「ほっとしてる」のか。

 そのどちらでもあり、そのどちらでもないような。

 この「自分自身で、自分の気持ちがよくわからない」というおかしな感覚は、あのとき以来、ずっと続いている。

 あの日、玄関先ではちあわせした理人と、キスをしてから、ずっと。

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