第14話 おそろいのマグカップ

     5


「この部分の面積と等しい部分って、どこになると思う?」

「ええと……あ、そうか」

「そう」

「これ、二等辺三角形だから……」

「ね? だから、あとは計算問題さ」

「そうか……ここんとこの面積の和で、答えが出せるんですね?」

「それで正解」

 俊一が、目を笑みのかたちにしてくれたので、茜音もつられるようにして笑った。

 頭のいいひとであるらしく、俊一の説明の言葉は明晰で研ぎ澄まされている。

 彼の教え方は、理人の教え方とは異なっていた。──生徒である茜音自身に考えさせるための問いを投げかけ、茜音自身でたどるべき道を選ばせていくような教え方をする。

 それに対して、理人は、茜音と同じ道を、一緒に隣で走ってくれるような感じの教え方をしてくれていたのだ、と気づいた。

 間違った方向へ行きそうになったら、こっちへ来い、とすぐに腕をひっぱってくれ、けつまずきそうになると、走るのをいったんやめて、「大丈夫か?」と顔をのぞきこんでくれるような。

 その教え方の違いは、俊一のほうがずっと年上で、理人と茜音は同い年であることに由来しているのかもしれない。

 どちらがいい、とかいう話ではなく。ただ「違う教えかただなあ」と、感じた。

 でも、勉強を始めたばかりの頃のことを考えあわせると、理人の教えかたのほうが、自分には、合っていたんだな、と思った。

 あの頃の、深い夜の森の中で、途方に暮れていたような気持ちの茜音にとっては、「自分の隣で、一緒に走ってくれる」存在が、とても必要だったから。

 理人がそうしてくれたように。


     *


「ごめん、茜音。……遅くなった」

 慌ただしく玄関の鍵が回される音がして、理人が帰ってきたのは、その日、夜の八時すぎだった。

 オーバー姿のまま、理人は、茜音と俊一が勉強している食卓のところまでやってきた。手には、コンビニの袋がぶら下げられている。

 マフラーをはずしている理人の体から、ふわりと、「冬のにおい」が、した。雪が降る前の、夜の外気の冷たいにおい。

「あー、理人。遅かったな」

 俊一が笑った。

「俊ちゃん。……茜音に、数学、教えてくれてたんですね」

「うん」

 そう笑った俊一に、助かります、と言って頭をさげたのは、理人だった。なんだか、理人が、茜音の保護者であるかのようだ。

「ごめんな、茜音。こんな時間まで、帰れなくなるとは思ってなかった」

 そう言った理人がオーバーを脱ぎおわったとき、彼が普段と違って、スーツを着ていたことに気づいた。

 濃紺のジャケット、真っ白なワイシャツ、紺と暗い赤のレジメンタルタイ。

 ……一瞬、言葉が出ないくらい、格好よかった。

 理人は紺色がよく似合う。黙っていると、険しいくらいに整った顔立ちをしている男なのだが、彼には、ほんのひとかけらだけ、甘いニュアンスがある。

 そのひとかけらの甘さを、紺という色は、よく引き立てるのだ。

「どした、理人? そんなカッコしてさ」

 俊一が尋ねた。

「うちの研究室が、中国の大学と合同研究してるんですよ。……それで、向こうの大学から、教授から院生まで十三、四人がやってきて、歓迎パーティがあったんです。だから、スーツ着なくちゃなんなくて」

 ネクタイをゆるめながら、理人が答えた。

 ──えーと。

 理人がそんな格好してると、カッコ良すぎて……なんだか、困る。

「俺みたいな下っ端は、パーティの通訳兼使いっ走りで。……いいようにこき使われて、帰らせてもらえなくて」

「え? 理人、中国語、できるの?」

 茜音は思わず問いをさしはさんだ。

「できるわけないじゃん。もちろん英語で、だよ」

 いや、英語ができるのも、すごい、んですけど。

 それから、理人は「向こうで着替えてくる」とことわって寝室に向かい、ほどなくしてジーンズとライトグレイのプルオーバーの見慣れた服装で戻ってきた。

「それじゃ、まあ、理人も帰ってきたことだし。……数学きりあげて、晩メシにしますか」

 うーん、と伸びをしながら俊一が言い、茜音は「ありがとうございました」と彼に頭をさげ、理人はテーブルの上の問題集だのノートだのを重ねて隅においた。

「理人は、なんか、メシ食べてきたの? その歓迎会で」

 俊一が尋ねた。

「会場で食事が出されたんで、一応食べてはきたんですけど。……なんか、ああいうのって、食べた気がしないんで」

「ああ。そーだよな、めんどくせえ会合のメシって」

「だから、おにぎり一個くらいは食べようかな。……俊ちゃんにも、買ってきましたよ」

 理人は、コンビニのレジ袋からテーブルの上に、おにぎりをいくつかと、唐揚げやサラダなどの惣菜を取り出しはじめた。

「おう、ありがと。……じゃ、理人が買ってきたやつ、俺、それ、もらうわ」

「いくら醤油も、ありますよ」

「わかってんなー、俺の好物。さすがイトコ」

 俊一が相好を崩した。

「茜音は? 何、買ってきたの?」

 理人が尋ねた。

 茜音の方にちゃんと顔を向けて、そして、茜音のことを見て、ごく普段どおりの感じで。

「あ。うん。……四川風麻婆豆腐丼、っていうのを買ったよ」

 そう答えながら。

「それなら、茜音、電子レンジ、使う?」

 こんなふうに理人と、普通に会話できていることで。

「うん。あっためさせてもらっていい?」

 あの朝のキスが、なんだか、遠いものになるような気がする。

「いいよ、もちろん」

 それは、たぶん。

「ありがと」

 俊一が、この場所にいてくれるからだった。……理人とふたりっきりになってしまっていたら、たぶん、こんなふうに、普通の感じではいられない。

「俺、お茶、入れるわ」

 俊一がそう告げて、キッチンに立った。

 一年ほど前までここで暮らしていた彼は、勝手知ったるようすで、食器棚をあけて、茶器を取り出したりしている。

「あ。……なんか、新しいマグカップが増えてんな」

 俊一がつぶやいた。

「これ、理人が買ったの?」

 そう言って、俊一が取り出してみせたのは、茜音がここにきたときに使わせてもらっている、クリーム色とブルーの、揃いで色違いのふたつのマグカップだった。

「あ。……はい。俺が買いました」

 理人が答えた。

「いい色じゃん。ふたりでオソロのマグカップ。……ね、茜音くん?」

 意味ありげににやりと笑った俊一が、なぜか茜音に向かってそう言うと、理人は、ふいに顔を赤くして黙った。

 俊一のそのセリフで、茜音は、この部屋で、自分がよく使わせてもらっているマグカップが、理人によって新しく買い揃えられたものであることに気づいた。

 もしかして。……いや、もしかしなくても、理人が、彼自身と茜音が使うために、わざわざ購入したらしい。

 そして、この年上の従兄が、それを見抜いていて、理人をからかっているらしいことにも、気づいたのだ。

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