第13話 自分を信じるチカラ

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 俊一のあとにくっついてリビングに入ると、いつも理人と茜音が勉強している食卓のテーブルのうえに、オセロ盤が出ていた。

 盤の八割がたが、黒と白のコマで埋まっている。

「理人と、オセロしてたんですか?」

 そう尋ねると、「あ、これ?」と、俊一が笑った。

「これはねえ、俺が『ひとりオセロ』してたの」

「え。ひとりで……オセロ?」

 意味あるのか、それ?

「茜音くんは、理人と、オセロしたことある?」

 違う方向から質問が来た。

「あ。……いや、ないと思います」

 中学の頃には、わりとしょっちゅう、あのバカでかい理人の実家に遊びにいかせてもらっていたが、そんな経験がない。このマンションに、オセロ盤があることも知らなかった。

「まあ、そらそうだろうなあ。たぶん茜音くんは、オセロをやったとしても、理人には勝てないだろうからねえ」

 やけに断言するような口調だ。

「そう……ですか?」

「うん。一般の人は、あいつに、まず勝てないよ」

 ……「一般の人」、って。

「だからきみに、オセロの勝負を持ちかけたりしないんだな」

 ひとりでふむふむと納得している。

「そんなに、理人、強いんですか?」

「強いよ。だって、やつが子どもの頃から、俺が仕込んだからね」

 なかなかの言い草だが、俊一はすぱりと言い切った。

「俺は中学を卒業するまで、比宇可で育ったんだ。だから理人のことは、生まれたときからよく知ってんの」

 七歳年上だというから、俊一が七歳のときに、理人が生まれた計算になる。同じ町に住む親戚として、彼はその頃から理人のことを親しく見知っていたのだろうと、容易に想像がつく。

「俺、大学出たあと、札幌のこのマンションに住んでたんだよね。……そんで、そこに理人が来たからさ。去年まで、ここで二人で暮らしてたんだよ」

 ということは、つまり。

 茜音の知らない理人を、このひとは、よく知っている。

「理人を待ってる間、茜音くん、よかったら、ここで勉強しなよ」

 テーブルの上のオセロ盤を、すっとずらして、俊一は机上にスペースを作った。

「あ。……はい」

「本番が、もう近いんでしょ? 試験はいつ?」

「十一月の最初の土日です」

「ああ、それは。マジで直前なんだね。じゃあ、一刻も惜しんで勉強したいでしょう」

 俊一にそう言ってもらったので、茜音は、リュックから英語の問題集とノートを取り出した。

 この人はどうする気なのだろう、と思って見ていると、俊一のほうは、オセロ盤を自分のほうに引き寄せて、テーブルに頬づえをついた。

 盤をじっと眺めて、そしてときおり、ぱちりと石を置いたり、ひっくり返したりしている。

 「ひとりオセロ」。

 ……おもしろい……のかな?

 そうは思ったが、茜音は、おとなしく問題集に取り組むことにした。


     *


 六時になっても、六時半をすぎても、理人はマンションに帰ってこなかった。

 ラインでようすを尋ねてみたのだが、既読さえつかない。

「うーん、帰ってこないねえ、理人」

 オセロの盤のコマをかたづけながら(どうやら、『一人オセロ』の一ゲームが終了したらしい)、俊一が言った。

「茜音くん、今、なにを勉強してるの?」

「えっと……英語の過去問を解いてます。英語は、まだ、自分一人でもなんとかなりそうなんで」

「そっか。やつに習ってるのは、えーと、英語と数学の二教科だっけ?」

「そうです」

「つまり、英語と数学だったら、数学のほうがしんどいなって感じるってことかな?」

「はい」

「ふうん。……じゃあさ」

 俊一は、目の前のオセロの盤から、顔を上げて茜音を見た。

「俺でよければ、数学のほう、見てあげようか?」

 あ、え……と?

 そういえばこのひと、東大法学部卒だった。

「えっと、あの……もし、お願いできれば、ありがたいです、とても。僕一人だと、解答を見ても、マジでわかんないとこ、いっぱいあって」

「じゃあ、よかったら、教材、見せてみて」

 俊一に言われるままに、リュックから問題集を取り出した。

「これなんですが」

 差し出すと、俊一はすぐさま手にとって、眺めはじめた。

「ふうん。……すごいね、茜音くん」

「……なにが、ですか?」

「問題集、ちゃんと、やりこんである」

 そんなふうに誉めてもらえるとは、予期してなかった。

「あ、いえ」

「しっかり努力してるんだね」

「……努力だけなら、誰でもできますから」

 茜音がそう言うと。

 俊一は、問題集から目を上げて、茜音の目を見つめた。

 意外なほど優しいまなざしだった。

「そんなこと、ないよ、茜音くん。……きみがしてきた努力は、とても価値のあるものだよ」

 そんなふうに微笑んだ彼は、理人と似ているような気がした。

 顔立ちが、というより。茜音のことを、ちゃんと「自分と同じ高さにいるもの」として、同等に扱ってくれる感じ、が。

「高認の試験を受けようって決心して、そのための時間とエネルギーちゃんと使って。一生懸命がんばった茜音くん自身のことを、もっと自分で認めて、もっと褒めてあげてもいいんだよ」

 力のある口調と、あたたかい言葉だった。

「あ。……はい」

 うなずくと、じわりとこみあげた。

 嬉しさが、胸に。

「ふむ。……過去問を見た感じだと、数Ⅰの範囲っていうか、高校数学の中でも、わりとベーシックな問題だな」

 ページをめくりながら、俊一が言った。

「理人も、見ただけで『中三から高一ぐらいの範囲だな』って、言ってたんですけど」

「ああ、そうだね。だいたい、高校一年で学習する領域が中心になってるねえ」

「理人も俊一さんも、ぱっと見ただけで、わかるんですか?」

「そりゃ、……まあ、理人は北大入ってるし、俺も一応、そこそこの大学出身だからね」

 ……東大を、「そこそこの大学」だと、おっしゃいますか。ふむ。

「けど、僕には……さっぱり、わかんなかったです」

「そっか」

「中学の内容すらも、実は、よくわかってなかったし。……勉強のやり方も、何からやっていいか、全然で」

「でもさ、今は、違うでしょ?」

 問題集のページの上から視線をはずして、俊一が茜音を見た。

 笑みの形になっている目で。

「今は、茜音くん、そうじゃなくなったでしょう?」

「……はい」

 確かに、そう言われてみれば。

 途方に暮れて、理人に助けを求めたときの自分のことを思い返してみると、自分がちゃんと、成長していることがわかる。

 階段を一段一段、登るように。

 ひとつひとつは、小さな一段でも、積み重ねることによって、勉強を始めたときよりも高い位置へと、自分が登ってきたことを感じる。

「もう、この過去問に取り組めるくらいだし、一人での勉強のしかたも身についただろうし」

「……ええ」

「何より、自信がついたんじゃないかな」

 自信という言葉は、ついこの数ヶ月前まで、茜音にとって、遠い感覚のものだった。自分には縁のないもの、自分には、手に入らないもの。

 でも、今はちがう。

 俊一に指摘されて、はっきりと気づいた。

 俺の心の中に、自分を信じられる感覚が、育っている。──少しずつ、だけど。

 確かに。そして着実に。

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