第15話 彼の苦笑い
6
──で、その夜は、結局。
食卓の上に、買ってきたコンビニごはんを並べて、男三人で食べた。
俊一は、ほがらかな声でよく話し、よく笑うひとで、初対面の茜音がこの場で気後れしないよう、さりげなく会話を回してくれた。「俊ちゃんは、いいひとだから」という理人の短い評が、的確に当てはまるような人物であるらしかった。
その左手の薬指に、真新しい輝きを持つ銀色のリングがはめられていることに、さっき、数学を教えてもらっているときから茜音は気づいていたのだが。
俊一も理人も、なぜか彼の「新婚生活」については、まったく言及しない。なので、茜音も口をつぐんでいた。
夕食を食べた後、俊一は彼のかつての自室に(オセロ盤とともに)ひきあげ、リビングに理人と茜音のふたりが残って、英語の問題集を解いた。
勉強が終わったのは、午後十一時すぎのことだった。
俊一がこのマンションに泊まることがわかっていたので、茜音は、遅くなったとしても、自分のアパートにちゃんと帰るつもりだった。理人も、今夜は、茜音を引きとめなかった。
けれども、そのかわりに。
「茜音のこと、駅まで送ってくよ」
そう言って、理人は、茜音よりも先にさっさとオーバーを着こみはじめた。
「え、いいって、そんな。べつに、ひとりで帰れるよ」
「いや、けどさ。夜遅いから」
「俺、女の子じゃないし。……そんな心配しなくても」
十一時すぎとはいえ、数分歩けば、大きな通りに出られる。そして、駅までもさほど歩くわけではなかった。
理人が、茜音を送っていかなければならない理由は、なにひとつ、ない。
「いいの。……俺が、茜音のことを、送りたいんだから」
理人の口調は、激しいわけではなかったが、有無を言わせぬ強いものだった。
理人には、ときどき、そういうふうになるときがある。
普段は優しい男で、たいていのことは、ほとんどなんでも茜音に譲ってくれるのに、ときどき、こうと決めたら、その意志をきっぱりと貫き通すような。
「わかった。……じゃ、駅まで」
「うん」
「ありがとう」
「いや、べつに。……俺が勝手に、ついてくだけだから」
理人は、明後日のほうを向いてそう言った。
……照れている、のかな。
帰りがけ、俊一の自室に立ち寄って、お礼と挨拶を言ったほうがいいと思った茜音は、彼の部屋のドアをノックした。
「はい」
短い応えがあったので、ドアを開けると、ちょうど俊一は、誰かと電話している最中だったようだ。
「あの。……俊一さん、今日はどうもありがとうございました」
「おう、またな」
短くそう言って、にこっと笑って手をちょっと上げてくれたが、俊一は、すぐにまた、通話に戻った。
邪魔してしまわないようにそそくさとドアをしめたのだが、なんとなく──俊一は、彼の奥さんと電話で話していたんじゃないか、と思った。
携帯を耳にあてがっていた俊一の表情が、先ほどとはうってかわって、なんというか……やわらかで、あまい感じのものだったから。
理人とふたりで玄関を出て、エレベーターに乗った。
ドアが閉まり、ひゅううん、と音がして、二人の人間を乗せた小さな金属の箱が下降しはじめる。
その瞬間。
あ、と思った。
今、俺は理人とふたりっきりで、密閉された空間のなかにいる、と意識した。
手を伸ばせば、お互いにふれられるほどの距離で。
しかし、実際には、まったくふれもせず。
え……と。どうしよう。
理人と、ふたりっきり、だ。
その事実に心臓が苦しくなりはじめたころ、エレベーターが地上に着いた。
扉がひらいて、「ふたりだけの空間」が破られた。
ふたりとも黙ったまま、マンションの建物を出て、駅にむかって並んで歩きはじめる。
冬の夜の空気がつめたくはりつめていて、手袋を忘れた茜音は、コートのポケットに手をさしいれた。
──理人は、いま。
何を考えてる、のかな。
「なあ、茜音」
「えっと、理人」
二人で同時にあげた声がぶつかった。
「あ、ごめん」
「いや、こっちこそ」
また、言葉がぶつかる。
……なにやってんの、俺たち。
理人も同じ思いだったのか、彼が、低く笑ったので。
「理人から、話してよ」
茜音がうながした。
「俺から?」
唇のはしっこだけを、つりあげるようにしてちょっと笑った。──それは、理人の苦笑いだ。
「あのさ」
「うん」
「この間の、……あのときのこと、だけど」
理人らしくない歯切れの悪い口調で告げられた「この間の、あのときのこと」とは、やはり。
「あ。……ええと、……うん」
たぶん、アレ、だ。
あの、鉢合わせした玄関先での、キスのこと──だ。
具体的な言葉は、何も使わなかったけれど、理人も自分も、同じ出来事のことを思い描いているな、という確信があった。
「ごめんな」
理人から差し出されたのは、そんな言葉だった。
あの直後も、理人が、続けざまに謝ったことを思い出した。そして、そのことに、ひどく傷ついた気持ちになったこと、も。
なんで、あのとき、理人に謝られて。……俺は、「傷ついた」と感じたんだろう?
「ほんとうに、ごめん。……できれば、忘れてほしい」
「……忘れ、る?」
「うん。虫のいいこと、言ってると思うかもしれないけど、もう二度と、あんなこと、しないから。……だから」
隣を歩く理人は、横顔だけを見せて、淡々とそう言った。
けれど、それは、書かれたセリフを、読み上げているようでもあった。
「だから、忘れて……なかったことにしてほしい。そして、友達のままでいてほしい」
理人は、この言葉を俺に告げようとして。
何度も単語や言い方を、事前に考え抜いてから、今、俺に向かって口にしているんじゃないか、と思った。
根拠はないけど。なんか、そんな感触がする。
「うん。……わかった」
理人が「忘れてほしい」と言い、「友達のままでいてほしい」と頼むのなら。
自分の感じている、自分でもうまく言葉にできない、もやもやした気持ちも、おそらく、「なかったこと」にしておいたほうがいいのかもしれなかった。
そうしないと、理人の「友達のまま」でいられないのだろうから。
──だから、つまり、それは。
あのキスは、「なかったこと」にするのが「正解」なんだろう。……たぶん。
「ごめんな」
最後通牒のように、また、謝罪の言葉が理人の唇から滑り出た。
雪の季節がやってくる直前、札幌の夜空は、澄んでつめたい空気のせいで、宇宙にそのままつながっているようだ。
深く、濃い闇が頭上にひろがる。そこに、星のひかりがまたたいている。
どこか遠くからのメッセージを伝えようとするかのように。
「茜音は?」
理人の問いは、ひどく唐突に投げかけられたので、茜音は、彼が何を言おうとしたのかがよくわからなかった。
「え……と、なんのこと?」
「さっき、茜音が言いかけようとしたこと。……なんだったの?」
その言葉につられて、茜音が隣に歩く理人を見上げると。
理人の瞳が、茜音のことをじっと見つめていた。──意外なほど、熱のこもったまなざしで。
茜音の何もかもを、見逃さないでおこうとするかのような。
「あ。……えっと」
今までにも、こういうことが、何度もあったような気がする。
たとえば、理人とゲームをしていて、あるいは、問題集を一緒に解いていて。
茜音は、ゲームの画面や問題集を見ていて、隣の理人も、そうしているとばかり思っていたのに。
彼の視線が、自分の横顔にじっと注がれていた、と気がつくこと。
「わ……わすれちゃった」
「忘れたの?」
ふたたび、理人が唇のはじっこをつりあげて、笑った。
彼の苦笑い。
「うん。……」
ほんとうは。
茜音が言いかけたのは、理人に聞きたかったのは。
……あのキスは、理人にとって、なんだったのか、ということ。
どうして、とつぜん、俺にキスしたの?
あのキスは、理人にとって、どんな意味があったの?
けれども、理人が「なかったことにしてほしい」というのなら。
その問いは、「忘れた」ことにして、彼に、投げかけないほうがいい。
茜音に謝ったということは……理人にとっては、あの唇と唇の接触は、おそらく、「悔やむべきこと」だったのだろうから。
ふたりが友達のままでいるために。
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