prologue

第1話 3年ぶりの声──茜音

 窓から見える夜空の低い位置に、白く、ほそい月がかかっている。

 ──理人も、同じ札幌の街で、この月を見ているかもしれない。

 そう思った茜音の耳に、電話の呼び出し音が届きはじめた。

 十六歳のとき以来、まるまる三年間、理人に電話をかけたことがなかった。もしかして、この番号は、もうダメかも、と思ってもいたのだが。

 呼び出し音が鳴っている。

 北海道の北寄りにある比宇可町から、茜音が札幌に引っ越してきて最初の夜だ。アパートの狭い一室には、まだ開けていない段ボールがいくつか残っている。

 三年間、理人の番号に、かけたこともなかったが、彼の番号を消すこともしなかった。

 連絡を取りたい、とずっと思っていた。でも、勇気が出なかった。

 さっきだって、通話ボタンを押すだけで、茜音の指はふるえた。

 最後の電話で、理人にひどいことを言ったという自覚がある。それが三年と少し前のことで、あのころ病院の中にいた茜音は、半年間、家族以外の誰とも連絡ができなかった。そして理人からも、連絡が来なくなった。

 苦しい夜には、何度も考えた。さびしかった茜音に、理人がさしのべてくれた強い手や、かけてくれた優しい言葉を。

 そして、もう彼とは、友達ではいられなくなったのかもしれないことを。

 呼び出し音が続いている。

 理人は出てくれるだろうか。声が聴けるだろうか。

 俺ともう一度、友達になってくれるだろうか。それとも。

 それとも。……

「……はい。楠田ですが」

 七回目のコールで、あっけなく通話がつながった。

 三年ぶりに聞く声。理人の。

 音の階段を、とん、と、一段、降りたように、彼の声は低い。記憶のなかにあるとおりに。

「あ、あ、あの。……お、俺、あの」

 理人だ、と思ったとたん、用意していた言葉をすべて失う。

 声を聴きたくて、また友達としてつきあいたくて、かけた電話。でも、そう思っているのは、自分だけなんじゃないか、と不安が急速にふくらんだ。

 けれど。

「……あかね?」 

 三年分の時間を、かるがると乗りこえて、理人は、茜音の名前を呼んだ

「茜音だろ?」

「うん。……そうだよ」

 なんとも間の抜けた会話。

 なのに、胸がふるえている。

「久しぶりだな」

「……だよね。たぶん、三年ぶり、くらい」

「そうだな」

 理人の応答は短かったけれど、その胸には、きっと、三年分のいろいろな思いが去来しているはずだ。茜音と、同じように。

 その感情は、優しくてきれいな色彩だけではないだろう。黒く濁ったものや、苦くて痛いものも、あるのだろうと思う。──けれど。

 たとえ、そうだとしても。

 理人と茜音の夜が、今、確かにつながっている。

「あのさ、俺、今、札幌にいるんだよね」

 茜音がそう告げると。

「え? ほんとに?」

 驚いた声が返された。

「いつまで?」

「いつまでっていうか……引っ越してきたの。札幌に」

「引っ越してきた? ……って、おまえ、比宇可から?」

「うん」

 そう答えたあと、茜音は次の言葉を言いあぐねた。

 どこから、話せばいいだろうか?

 あの北の片田舎の比宇可町を、出ていくことを決めた経緯と。

 この札幌の街に、引っ越してくることを決めた理由について。

「……そうか」

 理人は、短いあいづちをうった。

 そして。

「なあ、茜音」

「うん?」

「……お母さんのこと、聞いたよ」

 そんな言葉が続いた。

「あ。……理人、知ってたの」

 小さな田舎町の、狭い人間関係を考え合わせれば。

「うん。うちの親から聞いた」

 茜音の母が事故で亡くなったことを、彼が聞き知っていても不思議はないのだけれど。

 すこし硬い声で、理人が「おまえひとりで、大変だったな」と伝えてくれたので、茜音も、ありがとう、と返した。

 ──去年の十二月、本格的な雪の季節が始まったばかりの比宇可町で、深夜、アイスバーンの道路で母が起こした単独事故。

 たったひとりで運転中、車がスリップして、ハンドルの制御を失ったのか、車ごと道路から転落して、彼女はそのまま帰らぬ人となった。まだ四十二歳だった。

 母が亡くなって、小さな葬儀をすませたそのあと、茜音は、母が彼女自身に生命保険をかけていたことを知った。

 保険金の受取人は、母にとってたった一人の家族である、息子の茜音だった。

 ものすごい大金、というわけではなかったが、たとえば、茜音が比宇可でのバイト暮らしの生活をやめて、どこか別の場所に引っ越したりしても──高校に通い直したり、大学に行ったりしても、充分に数年間はその生活をまかなえるような額ではあった。

 その保険金が支払われることを知った日。──茜音の中で、ゆっくりと、ひとつの決意が生まれていった。

 十六歳で失われた生活を、もう一度、やり直したい、と。

 あのとき奪われたものを、ちゃんとつかみとろう、と。

 自分の意志で。自分の力を使って。

「おばあちゃんが亡くなって、母もとつぜん、事故で亡くなってさ。……俺ひとりで、あの比宇可町にいる意味が、あんまり、ないから」

「ああ。……それはそうかもしれないな」

 あいづちをうってくれた理人の低い声は、三年間の空白を経てもなお、温かかった。

 同い年なのに、理人は、まるで優しい兄のように、困っているときには手をさしのべてくれ、淋しいときには寄り添ってくれる存在だった。

「だから、思い切って、札幌に引っ越してきたんだ」

 だって、この街には、理人がいるから。──という言葉は、もちろん、言わずにおいた。

 これからもたぶん、理人にも誰にも、告げることはないだろうけれど。

「あのさ、茜音」

「ねえ、理人」

 電話の向こうとこちらであげた声が、同時になってしまって、ぶつかりあった。

「……茜音からどうぞ」

「いいよ、理人からで」

 ふたりで話していると、発声のタイミングがまったく同じになって、こんなふうに、声がかちあうことがよくあった。

 昔から、そうだ。──ふたりが中学で出会ってから、ずっと。

 それを思い出したら、茜音はおかしくなって、笑い声をあげた。おかしさは、理人にも伝播したようで、電話の向こうの彼も笑った。

「……じゃあ、俺から言わせてもらうね」

 ひとしきり笑ったあと、茜音は口をひらいた。

 アパートの窓から、夜空の低い位置に、白く、ほそい月が見える。──さっきはただの月だったものが、今は、なにかの予兆のように美しく、茜音の目に映った。

「ねえ、今度、どっかで会おうよ。……ひさしぶりに、理人と話がしたい」

 理人から返されたのは、ふたたび、笑い声だった。

 その笑い声のあと、彼の低い声が続いた。

「茜音と同じことを、俺もいま、言おうと思ってた」

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