第27話 14歳──春・ゆるむ雪
窓からさしこんできた光が、理人の部屋の床に、日だまりを作っている。
その日だまりのなかで、すう、すう、と茜音が寝息をたてている。
中学指定の、ダサい紺色ジャージを着た体を小さく丸めている。自分の膝を抱いて、体育すわりをした格好で、ころんと床にねころがった、みたいな。
ローテーブルを部屋に出して、十四歳の理人は、その前にすわっていた。茜音と二人で、「春休みの宿題」をするためだ。
「あー」とか「うう」とかつぶやきながら、数学と取っ組み合いをしていた茜音だが、そのうち、「ごめん寝かして」と言って、カーペットにころんと転がった。そして、すぐに寝息が聞こえてきた。
今なら、と理人は思った。今なら、茜音のことをじっと見つめていても、誰にもバレない。──茜音自身にも。
こっそりとその寝顔をのぞきこんだ。
眠る茜音は、理人に横顔を見せている。
まぶたが閉じられているせいで、睫毛が濃い影を作っている。
額にかかる前髪、つんと尖った鼻先、みずみずしい、果物のような唇。
もし、今。
眠る茜音のこの唇に、自分の唇を押しあてたなら。
それは、どんな感触がして、どんな味がするだろう?
……そんな想像の中に引き込まれそうになった瞬間、突如として頭上から、大きな物音が降ってきた。
たとえて言うなら、「ジャックと豆の木」の大男が、理人の家の屋根を蹴っ飛ばしたみたいな、どでかい音。
眠っている白い顔が、びくっ、と震えて目をあけた。
「な、なに? い……今の、音……」
まだ半分、眠りのなかにいるような、ねぼけた声で。
「あ。この音はね、うちの……」
音の正体を知っている理人が説明しかけたとき、さっきよりも大きな音が、再度、頭上にとどろいた。
「──うわっ!」
今度の音は、家全体がビリビリと震えたほどだから、茜音は、反射的に体を起こして、あたりを不安そうな顔で見回している。
「なに、これ? 理人、何の音?」
理人は笑った。
そして、笑いながら。──自分の胸の奥が、ぎゅうっと熱くなったのを感じた。
「これはね、屋根の雪庇が落ちた音」
「せっぴ?」
数ヶ月前に、埼玉から比宇可に転校してきた茜音は、「雪庇」と呼ばれるものが何であるのかを知らないようだ。
「雪庇っていうのはね。屋根に積もった雪が、少しずつ、こう、屋根からはみ出していって……」
理人は、左手で屋根を、右手で、その屋根に巻きつくようにしてくっついている、雪庇の形を作ってみせた。
「ほら、こんなふうに、『ひさし』みたいに、屋根から出っぱってくる雪のこと」
言葉を紡ぐ理人を、茜音が、素直な瞳で見つめている。
その瞳の色が、きれいだな、と思う。──また理人の胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
「三月になって、太陽の熱であたためられた雪がゆるんでくるだろ。そんで、屋根の雪庇が、どさっと大量に落ちて」
胸の奥の熱。それから、あまい痛み。
それらがひとつに収斂して、オレンジ色の炎に変わる。
「……そのときの音だよ」
理人はそう答えて、「さきほどまで、そうしていました」という顔で、目の前にひろげていた問題集に視線を落とした。
決して、おまえの寝顔を、じーっと見つめていたわけじゃないから──というポーズである。
「ふーん。……せっぴ、ってのが落ちた音、かあ……」
ようやく納得がいったらしい茜音が、ひとりごとのように口にした。
アノラックを水浸しにされた一件以来、理人は、茜音が中学の中で孤立してしまわないよう、気を配るようになっていた。
学校内で一緒に行動したり、放課後、彼を自分の部屋に招いて、同じ時間を過ごしたり。
「助けてあげなさいね」と、母から言われたせいもあるし、誰かが理不尽な悪意のターゲットになっているのを黙って見ていられない、理人自身の正義感によるものでもある。
けれど、ほんとうは。
ほんとうは、理人の胸のなかに、ひとつの炎が生まれたからだ。
茜音と一緒にいると。──茜音が笑うと、茜音がなにかを言うと、茜音が理人を見つめると。
それらのいちいちに反応して、オレンジ色の炎が、十四歳の理人の中で揺らめいた。
あかあかと燃えさかる炎を、じっと胸のなかに感じること。
それは、胸の痛みをともなうのだが、その痛みさえも、理人は感じていたかった。
胸のなかで生まれたその炎の名前を、理人はすでに、はっきりと知っていた。
「あーよく寝た……」
午睡から目覚めた茜音は、ふわーん、とあくびをして、伸びをしたりしている。
「ほんと、おまえ、よく寝てたな」
さりげない口調になるように気をつけながら、相槌をうつ。
「だって、ここんとこ、家であんまり、夜、寝られてなくてさ」
「ふーん? なんで」
「うん。……うちの母親、帰ってこなくなっちゃって」
茜音はさらりと言ったが。
思わず、ノートに走らせていた理人のシャープペンシルが止まった。
「お母さんが? 帰ってこないって……茜音、どういうこと?」
「あ。……いや、ずっと帰ってこないってわけじゃないよ?」
茜音が、慌てたように言った。自分の言葉が、思わぬ波紋を投げかけてしまったことに、「しまった」とでも思ったのか。
「うちの母親、仕事でさ、……ほら、お客さんと一緒にお酒を飲む仕事だから、今までだって、基本、俺が寝たあとの夜中過ぎに、お母さんが帰ってくるのが普通だったんだけど」
「……うん」
「最近は、朝になっても帰ってこないことが、続くようになってて」
──それは、ちょっと、かなり。
「あ、帰ってきたのかな、まだかなって、心のどこかで、ずっと待ってるじゃん。……だから、ほんのすこしの物音でも起きちゃうし、なんていうか……うまく眠れない感じなんだよね」
聞き捨てならない。
「茜音さ。……おまえ、食事とか、どうしてるんだ?」
「ああ……基本、コンビニ」
「お金は?」
「お母さんが置いてってくれる。千円札三枚で三日分、とか」
茜音の母は、シングルマザーだ。
たった一人しかいない親が、三日間も、家をあけたまま、帰ってこないというのか?
それは、なんていうか……誰か、信頼できる大人に相談したほうがいいんじゃないか。たとえば、学校の先生とか、スクールカウンセラーとか。
友だちとして、そういうアドバイスをしたほうが──
「あの、理人?」
茜音の目が、伺うようにじっと理人を見た。
「そんな、怖い顔をするようなハナシじゃないよ、理人」
「え……だけど」
「うちの母親、ちゃんと帰ってきてるから。そういうほうが、ほとんどだから」
取り繕うようにそう言って、そして。
「理人、今の話……お母さんに言わない、よね?」
不安げな顔。
「茜音のお母さんに、言わないでほしいってことか?」
「ううん、そうじゃなくて。……理人のお母さんに、言わないよねってこと」
予想外の方向から、茜音の言葉が続いた。
「俺が、うちの母親に言ったら、なにかまずいの?」
「まずいってこと、ないんだけど」
茜音は困ったように、作り笑いをした。
本心からの笑顔ではなくて、作り笑い、というのがはっきりとわかるような、見ている理人が淋しくなるような笑いかた。
「そもそも、理人のお母さんに、言わなきゃいけないようなこととか、ないし」
「……そうか? 中学生の息子を家に置いたまま、お母さんが家に帰ってこないっていうのは、ちゃんと……誰か、大人に、相談したほうがいい話なんじゃないか?」
「でも。俺、困ってないもん」
「……それ、ほんとうか?」
理人の問いに、茜音は黙りこんでしまった。
困らせたいわけでも、責めたいわけでも、ないのに。
「ずっと前、小学校の五年くらいんとき、かな。……こういうふうなことを、俺、ナニゲに友達に話しちゃって」
しばらく逡巡したのりに、茜音が口をひらいた。
「それって、埼玉にいたころのこと?」
「そう」
茜音は再び、あの「作り笑い」をした。──そんな笑いかたは似合わない。茜音には、全然、似合わない。
「そんで、その友達、自分のお母さんに、話しちゃったみたいで」
「……うん」
「すぐに学校のセンセに話が行って。そっから即、ジソウに、話が行っちゃって」
「ジソウ?」
「児童相談所のこと」
茜音は即座に答えてくれたのだが、「ジソウ」という省略語を、ごく当然のように使う彼の生い立ちを想像して、理人は、言いようのない気持ちになった。
「そんでさ、俺。……すぐに施設に連れていかれたの。何もいえない感じだった」
「……うん」
「そこが……ほんと、最悪だった」
「……」
「一週間くらい、かな。……お母さんが迎えに来てくれることになるまで、俺、ほんとうに、……ひどい目に、あわされたの。その施設で」
簡単に、あいづちさえも、打てないような話だった。
その「ひどい目」というのは、どの程度の、どういうものなのかと尋ねることも、できないような。
「だからさ。今の話、理人のお母さんとかに、言わないで」
「……」
「ほんと、大人に相談しなくちゃいけないことなんて、何もないから」
明るい口調でそう言ったくせに、茜音の瞳は、暗い色に変わった。
だから理人は、それ以上、どんな言葉も、どんな問いも口にできなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます