第36話 彼のココア

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 「ただいまー」

 子どもの頃から、茜音は、自分で自分に約束していることがある。

 それは、たとえ誰もいない家に帰ってきたとしても、「ただいま」という挨拶を、口に出して言うことだ。

 小学校の三、四年生ごろからの習慣だと思う。その頃は、母が日中の仕事をしていたので、学校から家に帰っても、誰もいなかった。

 自分の声で「ただいま」と挨拶すると、どんなときにでも、すこし元気が出る。

 電気のついていない暗いままの無人の家に、電気をぱちんとつけるような気持ちで、今も茜音は、自分と自分の家に、声をかける。──ただいま。

 バイトの帰りに、日用品の買い出しを終えて帰宅したので、背中のリュックと両手に、たくさんの荷物を持って帰ってきていた。

 茜音の一人暮らしのアパートは、玄関入ってすぐのところが小さなキッチンだから、そこで荷物を取り出していく。

 たまご、パン、食器用洗剤、ソーセージ、牛乳、たまねぎ、しいたけ、ポテトチップス──それから、ココア。

 ココア。……理人が、よく作ってくれていた。

 高認試験が終わって、八日間がたち、十一月も二週目になった。

 比宇可町よりも、ゆうに一ヶ月は雪が遅い札幌の街も、さすがに冷えこんできている。そのせいで、甘くてあたたかいココアが飲みたくなった。

 湯沸かしケトルに水を入れ、わかしはじめる。

 理人が使っていたのは、赤い箱で、白のカップに湯気のたつココアの絵がプリントされた銘柄だ。たいていのスーパーに置いてあって、今日行った店の棚にも、茜音は難なく見つけることができた。

 箱をあけると。

 個包装のスティックが整然と詰めこまれている。そのうちの一本を取り出す。

 理人のマンションのキッチンで、よく目にしていた赤いパッケージ。


 ──高認試験に合格したらさ。……茜音は、どうする予定なんだ?

 理人にそう尋ねられたのは、たしか、まだ、二人で勉強をはじめたばかりの、五月ごろのことだったと思う。

 あのときも、ふたりで理人がいれてくれたココアを飲んでいた。

 ──んー……車の免許、取る。まずは。

 ──免許か。

 ──うん。

 ──だよな。

 五月といっても、札幌では、セーターかカーディガンが必要なくらいに寒い夜があるのだが、その夜も、そんなふうに寒い夜だった。

 だから、理人が入れてくれた甘くて温かいココアが、茜音の心と体に、沁みていくようだった。

 ──理人は、どうやって免許とったの? 比宇可町の教習所で?

 ──いや。俺は、札幌に来てから取った。

 ──ふうん? それっていつのこと?

 ──去年。大学一年のとき。

 理人のマンションの深夜のキッチンで、そう答えていた理人の姿が、茜音の心のなかで映像になる。

 ライトグレイのプルオーバー、濃紺のジーンズ。ごく当たりまえの服を、さらりと身につけただけなのに、背の高い理人の姿は、ひどく格好よかった。

 今、思い返せば、あの頃から、あのマンションのキッチンにはマグカップが置かれていた。

 くすんだ水色のカップが理人。クリームイエローのほうが茜音。

 色違いで、おそろいの品。

 俊一がそのことで、理人をからかっていたみたいだったから、気づいた。

 あのふたつのカップは、理人がわざわざ、俺と二人で使うために買ってくれたものだったんだ、と。

 ──それで、そのあとは……茜音、どうするんだ?

 ──そのあと?

 ──うん。車の免許を取ったあと。

 ──そうね……。

 理人に尋ねられて、茜音は、答えるのに、ちょっと迷った。

 でも、勇気を出して答えた。本当の気持ちを。

 ──予備校に通いたい。大学を受験するための。

 一息に言った。

 ──大学か。

 ──うん。……俺、心理学とか、勉強してみたくて。

 大学に行きたいと思っていることを、茜音は、はじめて話したのだ。

 自分以外の誰かに、初めて。

 ──ふうん。そうか。

 理人は、特に表情を変えずに、彼のココアのカップに口をつけたと思う。

 ──……へん、かな?

 ──なんで? 変じゃないよ、全然。

 ──だってさ。……こんな、高認試験の勉強にも、手こずってるような俺が、大学に行きたい、なんてさ。

 ──そんなことないよ、茜音。

 意外なほど強い口調で、理人が反論した。

 ──茜音は今、ちゃんと、そのために努力をしてるじゃないか。……すごいことだよ、自分一人で高認を受けようって決心して、それをちゃんと実行に移すなんて。

 ──そう……かな?

 ──そうさ。

 理人の黒い目が、茜音を見つめていた。

 深夜のキッチンで、自分を見つめてくれているその瞳に、どこか、胸の深い部分を満たしてもらえたような気がした。

 ──いいと思うよ、俺は。茜音が大学に行くの。

 茜音を力強く肯定してくれる理人の言葉が、甘いココアのように、沁みていく。

 茜音の心のなかに、しみて──あたたかく、広がっていく。

 自分の未来のことを話して、それを、誰かにちゃんと受けとめてもらえるのって、すごく嬉しいことなんだな、と、茜音はそのとき、思った。

 ああ、いや、……すこし、違う。

 ただの「誰かに」、じゃない。

 理人に受けとめてもらえたことが、俺は、あんなに嬉しかったんだ。……

 自分のアパートのキッチンで、理人がよく作ってくれたのと同じ銘柄のココアを作りながら、あの五月の深夜のやりとりを思い出していたら、なんだか茜音は、泣けてきてしまいそうになった。

 ……理人から連絡が来ないのだ。なぜか。

 高認試験が終わった直後、試験会場から家に帰る地下鉄のホームで、理人にテキストメッセージを送った。試験が無事に終了した、という報告だ。

 そのときは返信があった。「お疲れ様」とか「今日はゆっくり、休みなよ」いう言葉が並んでいた。「きっと受かると思う」とも送信してくれていた。

 そして。そのあと、すべてのメッセージに、理人からの返信が来なくなった。……ただし、既読のマークはつく。わりとすぐに。

 むろん、電話だってかけた。

 今までのつきあいから、バイトだの、研究室当番があるにしても、理人は、夜の十時から十一時ごろまでの間なら、電話をかけても応答してくれることがほとんどだったから、そのあたりの時間を狙って、何度か。

 けれど、理人は出ない。茜音がかけた履歴が残っているはずなのに、かけ直してくれるでもない。

 そんなことが一週間──いや、八日間、続いている。

 理人の身に、何か起こったんだろうか。

 あるいは……避けられているのだろうか。俺は。理人から。

 そんな疑念にたどりつかざるを得ないのだけれど、しかし、理人が、自分との連絡を拒否する理由が、皆目わからない。



 湯沸かしケトルの湯がわく音がして、茜音の思考が目の前の現実に引き戻された。

 理人が作ってくれていたのと同じ銘柄のココアの粉を、さらさらとカップにいれる。

 お湯は三センチくらいの深さまで。スプーンでぐるぐるかき混ぜて、よく溶かして、残りは牛乳を注いで、レンジで温める。

 そうやって、理人が作るのと同じ方法でココアを作り、茜音はひとくち飲んでみた。

 ……ん。

 ココアの味がする。いい香りもする。──牛乳がたっぷり入った、甘くてあたたかいココア。

 だけど、ひとくち飲んでみて、ようやく気づいた。


 飲みたかったのは、これじゃない。

 俺が飲みたかったのは──理人が作ってくれて、理人とふたりで飲む、あのココアだ。

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