第39話 偶然のランチタイム(1)

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 国道に面して、大きなガラス窓が取られたハンバーガーショップで、茜音は、ひとりで遅い昼ごはんを取っていた。

 午後二時すぎの店内は、わりと空席が目立つ。もうすこし早い時刻ならランチの客で混雑し、もうすこし遅ければ、放課後の高校生たちがたむろしたりするのだろうけれど。

 茜音の目の前には、さっきもらってきたばかりの自動車教習所パンフレットが広げてある。

 一月から入学したければ、今すぐ申し込み手続きをしないと、と教習所の事務室のおばちゃんから言われて、慌てて申し込みをしてきたところだった。

 ……もうすぐ、母が亡くなってから、一年たつことに、茜音は気づいた。

 去年の十二月九日、夜中の十二時半すぎ。

 比宇可から、隣町へと向かう道道でのあの事故で、茜音の母は、帰らぬ人になった。

 十六歳のあの事件のあと、……母の再婚相手が逮捕された。

 性的虐待の期間が長かったこと、自分がまだ、十五歳のときからそれが行われていたこと、茜音の一人暮らしの自宅に、合鍵を使って入ったこと、などの悪質性が加味されて、九年の実刑判決が出た。

 ……九年かよ。たったの。

 事件後、母は離婚して、病院から出た自分と、一緒に暮らしてくれた。

 二人だけのアパートで、茜音はニートのような生活をしていたけれど、母は、何も言わないでくれた。あの頃は、自分の中の時計が止まってしまったような気持ちだった。……

 物思いに沈みかけていた茜音の目に、そのとき、ある一人の人物の姿が飛び込んできた。

 店の大きな窓越しに、ベージュのトレンチコートを着た背の高い男が、こちらに向かって、冬の歩道を歩いてくる。

 あまりにも彼が颯爽としているので、つい視線を惹かれてしまって、「あ」と気づいた。

 ──あ。あのひと。……

 彼が誰であるのか、茜音が気づいたのと同時に、そのひとはガラス扉を押して、店内に入ってきた。

 大股でカウンターに歩み寄って何やら注文をして、それ終えたあと、さて……、という顔で、彼は店内を見回した。すわるべき席を探しているのだろう。

 その時点で、彼──理人の従兄の俊一のほうも、茜音が窓際の席にすわっていることに気づいたらしい。

 思いっきり目があった。

 ハンサムな顔をくしゃりと笑みのかたちにすると、俊一は、茜音の方に歩み寄ってきた。

「おー、奇遇だね、茜音くん。こんなところで会うなんて」

「あの……先日はお世話になりました」

 茜音は小さく頭をさげた。

「茜音くん、今、ひとり?」

「あ、ええと、はい」

「じゃあさ。もし邪魔じゃなかったら、ここ、一緒してもいい?」

 にっこりと微笑みかけられる。

 ……このひとに、こう言われて、断れるひとなんているのかな、と思うくらいの、ハンサムなスマイルだった。威力がすごい。

「はい。……あの、よろしければ、どうぞ」

 広げてあった自動車教習所のパンフレットを、茜音がばさばさとかたづけはじめたとき、俊一の注文の品ができあがったらしい。

 トレンチコートをひるがえして、俊一は再び、カウンターのほうへと歩いていき、品をのせたトレイを手にして戻ってきた。

「お、うまそー。……昼飯、遅くなっちゃったから、腹減ってたんだ、俺」

 席に着くとさっそく、ハンバーガーの紙をはぐって、かぶりついている。そして、その左手の薬指に、銀色のリングが輝きを放っている。

「茜音くん、よく来るの、ここらへん?」

「あ、いえ。……今日、初めて来ました」

「そうなの」

「今度、この近くの自動車教習所に通うつもりなんで、その申し込みに。……俊一さんは?」

「ああ、仕事で、たまたまね。……そういえば、茜音くん」

「あ、はい」

「試験、お疲れ様でした」

「あ。ありがとうございます」

「どうだった? 感触っていうかさ」

「そうですね……えーと、とにかく、すごい緊張して、めっちゃ疲れました」

「あはは、そうだよねえ」

「でも、無事に終わってよかったです。俊一さんにも、最後、数学でお世話になって……ありがとうございました」

「いーえ、どういたしまして」

 健啖家らしく、俊一はひとつのハンバーガーを九十秒ぐらいで食べ終えた。そして、すぐに次のバーガーに手を伸ばす。

「自己採点って、してみた?」

「あ、しました、しました」

「どんな感じ?」

「日本史が、一番、やばくて。……結構、ギリギリ、な感じでした」

「ああ……そう」

「でも、あとの科目は……たぶん、大丈夫そう、かな?」

「うんうん」

「英語が、思ったよりできてて、ほっとしたし、あと、実は、一番、数学が苦手だったんですが……たぶん、いけたんじゃないかなって」

「うん、数学は、いい感じだったんじゃないの? ……俺も、ちょっと教えただけだけど、数学に関しては、茜音くん、大丈夫だろうなって思った」

 俊一がさらりと言った。

 なにげないその言葉が、すごく、嬉しかった。……特に、理人から、なぜか連絡を断たれてしまった今となっては。

 ……なんで、なのかな。

 どうして理人、連絡、くれなくなっちゃったのかな。

「そんで、合格発表は、いつ?」

「十二月初旬です。……個人宛に郵送で送られてくるんですけど」

「へえ、そうなの」

 そう言うと、俊一は、食べ終えたバーガーの包み紙を、くるくると丸めている。

「実をいうとね。……俺の配偶者は、高三の五月くらいで、高校を中退しててさ」

 淡々とした口調だったが、それを話す俊一の顔が、ふわりとやわらかくなった。

「あ。……そうでいらっしゃるんですね」

 茜音は、理人のマンションでの別れ際に見た、誰かに電話をかけていた俊一の微笑みが、やわらかだな、と思ったことを考えた。──春の日ざしみたいに、やわらかだな、と。

「彼は高認を受けて、大学に行ったんだ」

 話の途中で、俊一は。

 その配偶者の性別がわかる代名詞を、さらりと口にした。

「茜音くんが、高認をがんばって受ける話を聞いた時から、なんか勝手に、親近感を感じちゃってさ。応援したい気持ちだったんだ」

 俊一に同性のパートナーがいることは、すでに茜音は知っている。──理人から、最後に会ったときに、教えてもらっているからだ。

 ……だけど、俺、今、どういう反応、したらいいんだろうか?

「あ、ごめん。茜音くんのこと、とまどわせちゃった」

 茜音の表情を見てとったのか、バーガーを食べていた俊一が笑った。

「俺の配偶者って、男なんだよね」

 さっきと同じように、俊一は、さらりと言った。

「あの。……そのお話、実は、理人から聞いていました」

 だから、茜音は正直に伝えた。

「なんだ。じゃあ、最初っから、オープンにしちゃえばよかったなー」

 そう言って、また俊一は笑った。

「初対面の人には、俺、基本的に、このことを口にしないようにしてるのね。隠してる訳じゃないんだけど、偏見持つ人も、やっぱりいるから」

 そして。

「……茜音くんに、一個、聞きたいことあるんだけど、いい?」

「あ、はい。なんでしょう?」

「理人と、連絡、取り合ってる?」

「え……」


 ……虚をつかれた。


 だって。

 だって、理人から、連絡がこないのだ。


「え? わ、……ええと、わ、うわ、あの、茜音くん!」

 ──あ、と思ったときには、もう遅くて。

「ごめん、ごめん、茜音くん……そんなつもりじゃなかった」

 茜音の目から、涙が、こぼれてしまったのだ。

 頬をつたって。

「すみません、ごめんなさい、あの……泣いたりして」

 あわてて右手のひとさしゆびで涙を払った。

 なにやってんだろう、俺。

 まさか、こんなところで、泣くとは。……自分でも、思ってもなかった。

「よかったら、これ。使ってよ」

 差し出されたのは、ポケットティッシュだった。

「あ……ありがとうございます」

 ちなみに「鼻セレブ」である。

 ──東大卒の弁護士は、差し出すポケットティッシュも、さすがに違う。

 ありがたく、その「鼻セレブ」を茜音が使っていると、向かいにすわった俊一が、なるほどなぁ、と、面白そうな顔をした。

「なるほど。……こんなにきれいな泣き顔、見せられたら、理人のやつ、」

 ──きみに夢中になっちゃうわけだなあ。

 俊一は、そう言ったのだ。

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