皇帝
頃合いを見て小屋の中に戻ると、すでにミアは食事を終えていた。
部屋の中には、さっき感じた少し古くなっているパンのニオイが充満していた。
「そんなにおなか減ってたんだ」
ミアがむすっとした表情で、俺をじっと見た。
「……仕方ないだろ、昨日も……多分食べてないし」
「お兄ちゃん、ホントに大丈夫? 昨日のことも覚えてない?」
覚えていないわけじゃない。
体と脳の片隅に、『イツキ』の記憶が残っている。
ようやく、精神と肉体が融合してきたような、変な感覚だ。
「ヤブでも、やっぱりお医者さんに診てもらったほうが……」
「平気だって。そんなお金があるなら、肉屋に一泡吹かせたい」
俺は余裕ぶって、壁に背中を預け、腕組みをした。
「ほら、片足で立つこともできる」
「……そんなの、誰でもできるよ」
ミアは尚更表情を曇らせて、紙袋を俺に差し出した。
「ん」
「なに?」
「……おかずの残り」
「……ミアのだろ、それ」
「私、お腹いっぱいだから」
「嘘つけ」
欲しい。
腹に入る『食べ物』なら、なんでも欲しい。
贅沢は言わない。雑草でも、胃に入って体に毒じゃなきゃ、食べたい。
欲しい。欲しい。欲しい。
「……ミア」
俺は、自分の中から湧き上がってくる感情をぐっと押し殺して、彼女をにらみつけた。
「俺は、本当に大丈夫だから。それはミアが食べてくれ」
ミアは、もう一度、ぐっと紙袋をこちらに差し出す。
ほんのり、肉屋で感じたあの脂の焼ける甘いニオイを感じた。
瞳孔が開き、あたりが明るくなる。
「ミアが」
感情と異なる言葉が、口から出る。
ミアは俺の様子を見て、はぁ、と深くため息をついた。
「それじゃ、半分こにしよ」
俺は紙袋とミアの顔を交互に見る。
その提案は、悪くない。
だって、ミアもお腹いっぱいなんだもんな。
どう考えても見え透いた嘘なのに、俺はそれに乗っかりたくて仕方ない。
「それじゃあ――」
壁を背中で押して前に体重を移動しようとした瞬間、背中で何かがずるりと滑り、俺の体は地面に叩きつけられた。
「お兄ちゃん!?」
「ッ……たぁ……」
突然のことで受け身も取れなかった。
体に電撃が走るような痛みがある。
こんな貧民窟で骨折なんてしたら、完全に終わりだぞ……。
それに、このボロ屋、今の衝撃で崩れたりしないだろうな……。
「大丈夫?」
「んー、平気平気……」
立ち上がろうと、両手を床につけた。
右手に、何かがクシャリと絡みつく。
「……これは?」
上体を起こし、今手に触れたものを確認する。
それは、しわしわになった古新聞だった。
◇◇◇
帝国歴3年、閏4月10日。現地取材。
我が帝国は、ザ・ワールド内南部領域にあたる10の町・村を含む一帯の占領に成功した。
当該地域は以前よりルグトニア聖王国と我が帝国の勢力争いの場となっており、今回の軍事作戦の成功は、我が帝国の益々の繁栄を占うものになるだろう。
愚かなルグトニアが、我が帝国の前にひれ伏す日もそう遠くないはずだ。
今回戦闘があった地域の両軍被害報告には、圧倒的な差がある。
調査によれば、全戦闘地域における人的被害数は、敵兵約3,000人に対し、帝国兵は402名。
武器の損耗についても、今後の占領政策に影響を及ぼすほどではないとマティアス軍曹は語っている。
また、10町村における一般人の人的被害は明らかになっていないが、家屋の延焼によって『家屋はほぼ全損』と判断されている地域が大半との見方があることから、非戦闘員の人的被害がかなりのものになることが予想される。
これはルグトニアの卑劣な焦土作戦によるものであり、我が帝国軍は戦闘終了・占領地域において、順に復興支援を手助けする必要が生じている。
これらの支援に伴い円滑な軍事作戦が難しくなっていることも、敵軍の狙いなのかもしれない。
ルグトニア聖王国と平和的な外交方針を模索する用意がある、とグリーディン・ルグトニア外相は語っていたが、現地の兵士にまでその意思が届いているとは到底考えられないような惨事が繰り広げられている。
嘘に嘘を重ねるルグトニアに、もはや付き合うことはできないというのが、多くの帝国民が抱く、正常な感情と言えるだろう。
今回の軍事作戦で我が帝国軍が奪取した領域は、以下の10町村、並びに当該町村域を連絡する街道である。
ブルードタウン、ホロムイタウン、パスティアタウン、メルー村、ホニャック村、アンサス村……。
◇◇◇
「アンサス……?」
紙を持った腕が震える。
それは……この精神が覚えている、数少ない単語の1つ。
俺が昔、誰かと一緒に作り上げた、大切な場所。
大切な仲間が、友人がいるはずの場所。
俺は、もう一度記事を上から下まで読んだ。
アンサスがどこにあったかまでは記憶にない。もしかしたら、俺の思っている『アンサス』とは違う場所かもしれない。
だけど……もしここに書かれている『アンサス』が、俺の思う場所なら……。
「ミア、今何年の何月何日だ!」
「え? あ、え、えと……帝国歴?」
「そう!」
「18年の、7月……たぶん、28日だけど」
つまり、帝国歴というものが俺のイメージする1年と同じなら、今から15年も前に軍事進攻が完了して、今も占領下にあるっていうのか?
しかも、一般人の命も巻き込んだ戦闘の末に……。
「……許せない」
「え?」
右手に力が入る。紙の端がぐしゃりと音を立てる。
この細腕の、どこにこれほどの力が眠っていたのか。
怒りで、脳の血管がどうにかなっている感覚がある。めまいさえ覚えるような、激しい怒り。
「帝国が……アンサスを……!」
この記事は帝国軍目線で書かれている。敵軍である『ルグトニア』……ルグトニア聖王国のことを、決して良く書くことはないだろう。
だとしたら、町や村を壊滅的な状況に追い込んだのは、ルグトニア軍ではないはずだ。
「……帝国……!」
噛み締めすぎて、奥歯が痛い。
腹が立つ、なんて言葉では収まりが付かない。
この軍事作戦を立案、決行した当事者を捕まえてきて、徹底的に痛めつけてやらなければ気が済まない。
憎い。一度殺すくらいでは飽き足りない。
生まれてきたことを後悔するほど追い詰めて、二度と過ちを犯せないようにしないと。
俺が、この手で、徹底的に!
「お兄ちゃん……顔怖い……」
ピンと張りつめた意識にミアの声が入り込んできて、俺ははっと我に返った。
今、俺、何を考えていたんだ……?
「……ごめん……」
俺は記事を床に置き、何とか笑顔を作る。
「ちょっと、疲れてるみたい」
「……お兄ちゃん、ホントに変だよ? お医者さん、ホントのホントに大丈夫なの?」
「だから言っただろ? ヤブに渡す金があるなら、肉屋に投げつけて肉売ってもらうって」
俺はテーブルの上に残されていたミアの食べ残しに手を伸ばす。
「もらっていい?」
「あっ、お兄ちゃん! そっち私の食べかけ! お兄ちゃんのは、はい」
ミアは紙袋ごとこちらに寄越してくる。
中には、崩れかけたハンバーグのようなものが入っていた。
「多分クズ肉と人造肉の合い挽きだけど、結構イケるよ。大通りの洋食屋のゴミ箱から拾ってきたからね」
「ミアは流石だなぁ……ありがと」
俺は紙袋の中に手を伸ばす。
さっきのあの感情は、なんだ?
おぼろげな記憶の中でも、あんな気持ちになったことは……一度もない……はず。
もちろん、怒ったり悲しんだり、そういう感情の起伏自体は経験したことがある。
だけど、断罪しなくてはいけない、とまで感じたことはない。
まして、『生まれてきたことを後悔するほど追い詰める』だなんて……。
こんなんじゃ、まるで――
◇◇◇
ドンドンドン、と激しくドアをノックする音があった。
こちらがリアクションする間もなく、扉が押し開けられる。
「邪魔する」
仰々しく防弾チョッキのようなものを着た男が数名入ってくる。
手に持っているのは……銃?
あれは、間違いなく『アレ』によるアイテムだ……ちくしょう、名前が思い出せない。もやもやする……。
「通報があった。ここに盗みを働いている小僧がいると」
先頭に立った男が、俺とミアをそれぞれ見る。
そして、俺に一歩近づいた。
「そっちの女を通報するなら『小僧』とは言わねえな。え?」
彼はやや屈み、俺の下顎を掴んだ。
「お前か」
「俺は、何も」
顎を抑えられていて、うまく発音できない。
「何も? 俺たちのことを舐めてもらっちゃ困る。こっちだって複数の通報があったから来てるんだ」
勢いよく床に向かって放り投げられる。
首が取れそうな勢いに俺はよろけたが、それでも何とか踏ん張って男をにらみつけた。
「肉屋、魚屋、弁当屋。それから大通りの洋食屋……。知ってるとは思うが、店裏のゴミ箱ってのは人間の食べ物が入ってる場所じゃねえ。ありゃ、豚のエサ用に店が『売ってる』モンだ」
男はテーブルの上にあるボロボロの紙袋を開ける。
ミアが半分残してくれていた、俺のためのハンバーグ。ゴミ箱から回収してきた、俺たちの『食事』。
彼は紙袋の中を見て、嘲笑した。
「お前らは豚か?」
そしてそれを床に放り、土ぼこりの多く付いた靴で踏みにじる。
「あっ……」
思わず、声が漏れた。
その様子を、彼らは「ぎゃはは!」と大仰に笑う。
「この『餌』をどこから調達してきたのかは知らねえ。だが、窃盗は重罪だ。それにお前は、夜間外出禁止令も破ってるよな?」
家の外で、犬が遠吠えをした。
心拍数が上がっていく。
「昨晩、どこで何をしていた」
「それは……」
覚えていない。
だが、今朝方の記憶がつながっているところから考えると、ほとんど間違いなく「夜通しで食べられるものを探していた」はずだ。
「答えられないよな? 本当のことを言えば、お前は窃盗罪に加えて帝国令違反。刑務所じゃなくて強制労働所送りは確実……まぁ」
男が小屋の内側を見回す。
穴が開き、いつでも雨漏りしそうな天井。
木が腐って黒く変色している壁。
拾い物のテーブルとイスには統一性もなく、雑然とそこに置かれているだけ。
水道も当然ない。トイレも、キッチンも、この空間には何もない。
「ここで生き続けるよりはマシかもしれねえがな。少ねえが、きちんと『飯』もある……『餌』じゃなくな」
ミアが、俺のそばに寄り添う。
体の大きい男が何人もで押しかけてきたら、そりゃあ怖いに決まってる。
俺も、そうだ。
「……そんで……もう1回聞くが……お前、昨日の夜、何してた?」
「俺は……」
ミアの手を取り、強く握る。
「……何もしていない!」
そのまま、男の足元を抜け、走る。走る。
1つしかない古ぼけた小屋の入り口に向かって。明るい方へ。
「あっ、この野郎!」
あと少し。この扉を抜けて、スラム街へ出るんだ。
体が逃げ道を、隠れ場所を、覚えているはず。
頼む。あと少し――。
グンッ、と後ろに思い切り引っ張られて、服が裂け、俺は仰向けに、後ろ側へと倒れた。
「……ったく、手間掛けさせんじゃねえよ」
「放せッ! このっ……ミア、行けっ……!」
「お兄ちゃん!」
「なんだぁ?『兄と妹、感動の離別』ってか? 下らねえモン見せつけてんじゃねえぞ!」
俺の眼前に、猟銃の銃底が近付いてくる。
眉間をかち割られる。
そんな勢い、気絶じゃ済まない……!
「待て!!」
大声が響き渡る。ぴたりと、男の動きが止まった。
「何だ貴様! 帝国軍第三憲兵隊隊長である私に向かって何たる口の――」
男が顔を上げる。
「……こ、皇帝陛下!?」
「……待て」
「はっ! 大変失礼を申し上げました!」
掴んでいた手が放され、俺は乱暴に床に叩きつけられた。
男は俺の様子になど一切気を遣わず、立ち上がって敬礼している。
ほかの男たちも、どうやら敬礼しているようだった。
誰か知らないが、助かった……のか?
俺は顔を上げ、『皇帝陛下』と呼ばれた男を見た。
その大仰な肩書とは裏腹に、深くフードを被った男の表情は伺い知れない。
「しかし、皇帝陛下が直々にこのような貧民窟においでになるなど……どうなさいましたか」
「なんだ。俺の行動に文句があるのか?」
「いえっ! 滅相もございません! ただ……その……」
「言ってみろ」
「……ここは、いささか不衛生が過ぎます故、御身に万が一があってはいけませんので……」
「そうか。よい気遣いだ」
「はっ、有難き幸せ!」
男は、猫撫で声で手を揉んでいる。
「貴様、第三憲兵隊の隊長……だったか」
「はい!」
皇帝の目が、ギラリと光った。
「俺に対して『なんだ貴様』とは、どういう了見だ?」
「そ、それは! まさか陛下がこんなところにおいでになるとは、夢にも思っておりませんで――」
「では、次があるなら気を付けることだ。あるならな」
憲兵の男は意味を察したのか、膝からがくっと崩れ落ちた。ほかの憲兵たちはその様子を横目で見て、なお動けないのか、拳を握りしめている。
「第三憲兵隊に命ずる。この場から離れろ。邪魔だ」
「はッ!」
憲兵たちは、脱力しきった隊長を引きずるようにして、俺たちから離れていく。
「早くしろ!」
皇帝と呼ばれた男が怒鳴る。
憲兵たちは、最初から全速力だったのだろうか、ほとんど速度を変えず、離れていく。
「……ありがとうございます……皇帝陛下」
俺は立ち上がり、軽く咳をした。
軽く、のつもりだったが、思いのほかダメージがあったのか、咳が止まらない。
また、少しだけ血が出た。
「あーあー。あんなに暴れまわるからだぞ、『イツキ』」
俺はぎょっとして、皇帝の顔を見た。
彼は、フードをゆっくりと脱ぐ。
「ずっと探していた。お前をな」
そこにあった顔は……。
「……俺……?」
記憶の片隅にある、『俺』の姿だった。
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