輪廻

 暗い。寒い。

 ここはどこだろう。

 ざらっとした感触が手のひらに伝わる。


 目を開けているはずだが、何も見えない。

 天を見上げる。

 一本の糸のように細くなった月が、地上を照らしていた。


 だんだん、目が慣れてくる。

 地面が近い。


「……手……?」


 右手のはずのものを見る。

 わずかな光を反射して白く輝くそれは、明らかに毛に覆われている。


「……あ……んん……?」


 記憶が曖昧だ。

 確か俺は……そう、この路地裏で生まれて、2年くらい野良をやっていた猫……。

 酒場のゴミ箱を漁って昼寝したところまでは覚えているが、そのあとは、どうしたんだっけ?

 日が暮れて、そのままだったのか?


「……?」


 だが、何か違和感がある。

 変な夢でも見ていたのか?


「おぉ~、こんなとこに猫いるぞぉ」


 ろれつの怪しい声が飛んできて、俺は思わず顔を上げる。

 頬から鼻、耳の先まで真っ赤に染まったオヤジが、酒臭い息でこちらに屈んできている。


 そんなもん、我慢できるか!

 あの手の輩は、大抵俺のことを抱き上げてほおずりして、終いには「やっぱり獣臭いな」とか文句言うんだ!

 俺は知ってる!


 猛ダッシュで路地裏に走りこむ。


「あ~、逃げちまったぁ」


 だらしないおっさんの声を聴いて、ようやく一安心だ。

 鼻から、ふん、と大きく息を吐いた。


「……あれ」


 なんか、違う気がする。

 俺、ずっと猫だったっけ?


『お主の名前は……』

「……俺の、名前……?」


 父親はおろか、母親の記憶すらない野良の俺に、名前なんてあるわけがない。

 酒場漁りの白猫。

 強いて言うなら、それが俺の通り名だ。


『お主は、イツキ……』

「……」


 頭の中に何度も反響する、誰かの声。

 俺はぶるぶると大きく頭を振った。


 ここ最近冷え込みがひどかったから、風邪でも引いたのかもしれない。

 どこか、温まれる場所を探して寝たほうがよさそうだ。


『イツキ……忘れるな……お主はプレイヤー……』


 ここの路地は、目を閉じていても歩ける。

 俺が『ここで生まれ育った野良猫』だからだ。

 イツキって、いったい何の名前だよ。それに、プレイヤーって……。


『イツキ……お主の名は……』


 小さな脳が、ぐるぐる回転する。

 何かが引っかかる。

 もしかして、俺、本当に『イツキ』なんじゃないか?

 だとしても、それが一体何だっていうんだ。


「あっ! 見つけたぞこの野郎!!」


 突然デカい声が響き渡る。

 俺は思わず耳を伏せ、体を後ろにぎゅっと縮めた。


 見上げると、そこには肉屋のおっさんが、こめかみに信じられない青筋を立ててこちらをにらみつけている。

 そうか、この前ソーセージ食ったの、そんなにキレるほどだったか。

 基本はイイヤツなんだが、怒ると怖いんだよな、このオヤジ。


「こっちに来い! まったく……」


 肉屋のオヤジに捕まえられる。

 酒臭さは無いが、なんかウマそうなニオイが漂ってるんだよな、コイツ。


「今度やったら、ただじゃおかねえからな!」


 今までもそうやって何度も言われてきた。一度も「ただじゃおかなかった」試しがない。

 だが、申し訳なさそうな声で一声鳴いておこう。


「にゃ~……」

「……分かれば良し」


 肉屋が俺を、ぽいっと路地に放り投げる。


「なッ! 何してんだアンタッ!!」


 目の前に、ドデカい馬の図体が見えた。馬と、ずっと目が合っている。

 これ、馬車を引いてる馬だ。

 奥にはハンチングを被った行商も見える。


 轢かれる。逃げられない。

 着地ポイントに、もう止められないところまで馬の前脚が来ている。


 オヤジ、しっかりしろよ……何してんだよアンタ……。


 ギギィィッッ!!

 メキメキゴギャバギィッッ!!


 金属が軋み、木が割れる音がした。

 馬の脚に踏まれ、上からはさらに大量の荷物が降ってくる。


『イツキ……お主の名前は……イツキ……プレイヤー……』


「俺は……イツキ……プレイヤー……」


 顔に触れている地面が冷たい。

 ……そう、あの時……『あの男』に殺された、あの日と同じように……。




 ◇◇◇




 風が気持ちいい。

 空の高いところに太陽が照っている。

 俺は畔道のかたわらで、地から養分を吸い、天を仰いでいた。


 やることがない。

 思考することもない。

 ただ風を感じ、そよぐだけ。


「あー、こんなとこにまた雑草生えてるよ……しつこいねぇ、まったく」


 ブチッ。


 ……あー……?

 …………。




 ◇◇◇




 食卓の隅で、じっと皿を見ていた。

 美味しそうなニオイがする。

 あそこに飛んでいけば栄養が取れそうだ。


 羽を大きく振り、滑空する。


「ママ! ハエ!」

「きゃっ! もう、どこから入ってきたのかしら!」


 バチンっ!!




 ◇◇◇




 牧場のおじさんは、ずいぶん親切にしてくれた。

 毛が伸びてきたら刈ってくれるし、餌もくれる。

 年を取って羊毛の質が落ちてきても、おじさんは俺のことを屠畜しなかった。


「メェ太……もう疲れたか?」


 まぶたが重たい。

 自分のことは、自分がよく分かっている。

 昨日から、体がダルくて仕方ないのだ。

 立ち上がれない。横になっているのに、息をしているだけで疲れる。


「めぇ……」

「なんも言うな……メェ太……」


 おじさんのあったかい涙が、俺の首筋をじっとり濡らす。


「……めぇ……」


 あと少しの力で、口を開けて、おじさんの頬を舐めた。

 涙がしょっぱい。


 泣くなよ。俺のために。

 今まで、散々良くしてくれたじゃないか。


 おじさん。

 俺は、アンタのところで飼われて幸せだったよ。


 おじさん……。


「……メェ太? メェ太! おいしっかりしろ! メェ太……!」




 ◇◇◇




『忘れるな……お主の名前は……イツキ……プレイヤー……』




 ◇◇◇




 長い時を、生きてきたように思う。

 あんまり覚えていないのもあるけど、でも、とっても長い間……。

 俺は、色んな生き物になった。

 そして、それらの一生を、生まれてから死ぬまでを、ずっと経験させられた。


 何度生まれ変わっても、毎回死ぬときはツラい。

 痛くて、寒くて、本当にイヤになる。

 それでも、俺は死ぬと、また何かに生まれ変わるのだろう。


 細胞膜が、限界を迎えているのが分かる。

 ここまで動物プランクトンに捕食されずに成長してきたが、単細胞生物の寿命にも限界がある。

 死なない生き物などいない。


 ああ、バラバラになる。

 また、何かに生まれ変わらせられる。

 あまりに長すぎる『何かの一生分の時間』が、また俺に降りかかってくる……。

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