帝国

「ッは……ッ! はぁ……っ……?」


 全身が、軋むように痛い。


「ゲホっ、が……ッは……がはっ……」


 胸の奥にとげが刺さっているような、強烈な違和感。

 上体を起こし、何とか近くの壁に体を持たれかける。


 手を見る。


「……人間……」


 安堵か、それとも痛みに耐えかねてか、俺は頭を壁に預けて、手をだらりと床に放り投げた。

 ようやく、『言葉でコミュニケーションが取れるモノ』になった、懐かしい感覚だ。

 この際、獣人だろうがエルフだろうが、なんでもいい。

 人間っぽい形で、コミュニケーションが取れればいい。


「がはッ……げほげほッ!!」


 手で口を押えると、生温かいものが手にべっとりと付いた。


「……血……」


 俺の体、いったいどうなってるんだ……?

 せっかく人間に生まれ変われたのに、こんなに衰弱して……もしすぐに死んだら、また何に生まれ変わるんだか、分かったもんじゃない。

 とりあえず、『  』の中に転成呪符が残っていることを確認して……あれ……?


 何度イメージしても、『  』が開かない。

 ……これが、あの……?

 『何度もリスポーンを繰り返すと、記憶が曖昧になる』そう言っていた、あのエルフ……名前、なんだっけ。


 ダメだ。

 これまで、「思考回路のない生物」や「考えるのが苦手な生物」に生まれ変わったせいか。

 頑張って思い返そうとしても、ぽつぽつと、記憶が抜けている。


 俺は枯れ枝のような細い脚に力をこめ、立ち上がる。

 まだ、胸の奥が痛む。

 どこかに、薬は無いだろうか。


 あたりを見回す。

 ……なんだ、ここ。

 薬どころか、食べるものもなさそうな場所だ。


 一面、サビ鉄に覆われた道、壁、天井。

 店のようなものが軒を連ねていて、生気のまるで感じられない大人や老人たちが、ぼーっと座って店番をしている。

 道を歩いている人は、みなボロボロの服に、裸足。

 子供の中にはパンツ一枚で走り回っているヤツもいる。

 すすけた顔で。虚ろな目で。この街は絶望でいっぱいだった。


「……ここは……」


 俺の記憶にかろうじて残っている『街』とは、まるで様子が違う。

 それは、スラムとでも言うべき、あまりに貧しい街並み。

 俺は、ゆっくり、肺が苦しくならないように、歩き始めた。


 歩いていると、壁から突き出た配管が、突然『プシューッ』と音を立てて蒸気を噴き出してくる。

 気を付けないと、一瞬で火傷させられてしまいそうだ。


 さらに、この街の地面は「穴が開いている」。

 サビた鉄の床板が外れているところが何か所もあり、隙間を覘くと、遥か眼下に、暗い森林らしきものが見えた。

 どうやらここは、かなり高い所にあるらしい。


 なぜ穴が開いているのだろうか? 俺の前を走り回っていた子どもが一人、右足を取られて地面に半身がめり込んでいた。

 彼はぎゃあぎゃあ騒いでいたが、大人たちは誰も彼を助けようとはしない。

 こうやって、穴が出来ていくんだろう。もっと大きな穴が開いている場合は、つまり。


 俺は見ていられず、彼を引っ張り上げて助けてやる。

 勢いよく引き抜いて、尻餅をついてしまった。

 お陰で彼も穴からは脱出できたようだ。だが、礼もなく、一瞬でどこかへと走り去っていく。

 後に残された俺は、奇妙なものを見るような大人たちの視線にさらされている。


 居心地が悪すぎて、ぱんぱん、と2回尻をはたくと、今度は自分が床にハマらないように、慎重な足取りで逃げ出した。


 街の中でも少しだけ大きな通りに出ると、『ネオクーロンを綺麗に』『活気あるネオクーロンへ』という破れた垂れ幕が、何か所にも掛かっているのが見えた。

 ここは、ネオクーロンという街らしい。

 なんだか、聞き覚えがあるような……と思ったが、記憶にはまったく引っかかってこなかった。

 何度も繰り返していたうちのどこかで、少し聞いたことがある……程度のことなのかもしれない。


 大通りは先ほど俺が意識を取り戻した場所に比べれば、遥かに治安がよさそうだった。

 憲兵らしき人間も大勢歩いているし、パンツ1枚というような子どもの姿もない。

 逆に、すすけた格好をしている俺が、完全に浮いている。


 ちらりと横を見た。

 ショーウインドウに、自分の姿が映っている。

 ……やっぱり、人間の子どもだ。


「……お兄ちゃん、何してるの?」


 突然、後ろから声をかけられた。俺は驚いて、ゆっくり振り返る。

 自分より一回り背の低い、女の子。


「こっちに出ちゃダメって、お兄ちゃんが言ってたのに」

「あ……ああ……」


 そう、か……そうだったような気がする。

 明らかに場違いではあるし、俺が来るべき場所ではなさそうだ。

 ……しかし、記憶が曖昧で……。


 第一、この女の子、誰だ?


「……お兄ちゃん、変な顔。ほら、帰ろ?」


 彼女が俺の袖を掴み、スラムのほうへと引っ張っていく。

 無理に抵抗すれば袖が破けてしまうかもしれない。

 俺は「放してよ」と言いながら、彼女に従って、また暗がりのほうへと足を向けた。




 ◇◇◇




「今日はね、お弁当見つけたの!」


 彼女は嬉しそうに笑っている。


「おかずみたいなものはなかったけど……でも、サンドイッチが2つ残ってて! お兄ちゃんに1つ分けてあげる!」

「あ、ありがと……」

「……お兄ちゃん」


 彼女が不安そうに振り返る。


「……やっぱり、調子、悪いの?」

「んー……」


 さっきの喀血のことは、言わないほうがいいかもしれない。

 俺は何とか笑顔を作って、「大丈夫だよ」と言った。


「相変わらず、ウソがヘタだね」


 また、彼女は歩き出す。


「この前のお医者さん、やっぱりヤブだったんだね」


 俺も、黙ってその後ろをついていく。


「なーにが『一瞬で完全に治ります!』よ……銀貨を3枚も持って行ったくせに、薬の1つも出さないなんて!」

「……薬は、高いから」

「でも、お兄ちゃんがこのまま治らなかったら、2人ともいつか飢えて死んじゃうよ。今日みたいにラッキーな日はいいけど……私、みんなのこと食べるなんて絶対ムリだからね!」

「みんな?」

「みんなはみんな!」


 ぐぐぅ、とお腹が鳴る。


「……やだお兄ちゃん、まさか、本当にみんなを食べる気?」

「いや……」


 そういえば、体の痛みで今まで気にしていなかったけど、強い空腹感もあった。一体いつから食べていないんだ?

 1食抜いた程度のものじゃない。それよりも遥かに強烈で、胃が痛むような感覚さえある。


 右手に、肉屋が見えた。


「……そうだ、情報収集も含めて、ちょっとここに寄ろう」

「え?」


 彼女が明らかに怪訝な顔をする。


「……やめなよ」

「大丈夫。ここは、その……そういう街だろ?」

「でも……」

「いいからいいから」


 俺は彼女の制止を振り切って建物の中へ入った。

 焼けた肉が放つ、甘い脂の香りが鼻孔をくすぐる。


「はぁ……」


 思わず、ため息が漏れた。

 今すぐ、白飯に乗っけて掻き込みたい……。

 いや、白飯なんて贅沢なことは言わない。一切れあれば、あとは水を飲んで腹を膨らませてもいい。


「……すみません……」

「あ? ……なんだ、またお前か!」


 奥から顔をのぞかせた店主は、明らかに不機嫌な顔で俺に怒声を投げつけた。


「何べんも言わせんな! うちにはテメエみたいなスラムのガキに食わせる肉は置いてねえんだよ!」

「え、あ、いや、その……」

「金持ってんのか? おい! 一番安いのでもコレだぞ?」


 薄汚れたガラスケースには、『クズ肉100グラム 銀5オンス』と書かれている。


「あ、あの、その……肉が欲しいわけじゃなくて……」

「……だったらよそ当たってくんな。アンタみたいなのが店にいるだけで客足が遠のくんだよ」

「え……」

「え、じゃねえ! ほら、さっさと出てけ!」


 肉屋の店主は、腹立ち紛れか、俺の脚を蹴った。

 さらによろけた俺の尻を蹴って店の外に叩き出すと、ビシャリと激しい音を立てて店の扉を閉める。


「……ったた……」

「……だから言ったのに」

「……俺……昔、ここで何を……」


 彼女は俺の髪をかき上げ、「いいから、帰ろう」と、悲しそうにつぶやいた。


「でも、ちょっと……その、話が聞きたいんだ」

「ダメ」


 その瞳は、冷たく沈んでいる。


「私たちがここでなんて呼ばれてるか、知ってるでしょ」

「……なんて呼ばれてるんだ?」

「……スラムのダニ」


 小さな拳に力が入る。


「物乞い、し過ぎちゃったからねぇ。でも……生きるためには仕方ないもの。ゴミ箱漁りだけじゃ、生きていけないよ」


 ふーっ、と、深いため息が聞こえた。


「ってね!」


 輝くような笑みが、痛々しい。


「ほら、だから帰んないと! 今日はサンドイッチあるんだから! ダメになる前に帰らないと!」


 どうやら、とんでもない生まれの子どもとしてリスポーンしてしまったようだ。

 蹴られた脚が、まだジクジクと痛む。




 ◇◇◇




 どんどんスラムの外れへと移動していく。人工芝のような、不自然な緑があたりを覆い始めた。


「……お兄ちゃん、本当に調子悪そう。『飢えて死んじゃう』とは言ったけど、あんまり無理しないでね? 私が全部、何とかしてあげるから」

「……ありがと」


 本当の妹なのか、それとも「お兄ちゃん」と言って慕ってくれているだけの子なのか、どちらかは分からないが、頼もしい。

 とぼとぼと歩く俺のペースに合わせて、彼女も、ゆっくり歩を進めていた。


 やがてたどり着いた2人の家は、家と呼ぶにはお粗末すぎる、ボロボロの『小屋』だった。

 小屋の中には、犬や猫が数十匹とおり、さらに家の裏には、人よりも大きな動物の気配があった。


「これは……」

「……お兄ちゃん、ホントに大丈夫? もしかして、どこかで頭強くぶつけて記憶なくなっちゃった?」

「……そういうわけじゃないけど……」

「私の名前、覚えてる?」

「……」


 じっと顔を見る。

 過去のどこかで会ったことのある人か?

 頑張って記憶の糸を辿ろうとするが、何も引っかかってこない。


「……ミアだよ。本当に覚えてないの?」

「あ、ああ、いや、ミアでしょ? 分かってるよ? ただ、その……ちょっと、ぼーっとしてたっていうか……」


 ミア……。

 その名前に、俺はどこか聞き覚えがあるような気がした。

 だが、「いつの」「誰か」が思い出せない。

 まじまじと顔を見る。

 やっぱり、名前と顔が、どうにも結びつかない。


「……そんなにぼーっとしてたら、サンドイッチ私が食べちゃうよ?」

「えっ……!?」

「冗談」


 うふふ、と軽く笑って、ミアは手に提げていたぼろぼろの紙袋から、ぐちゃぐちゃになったサンドイッチ(と呼ぶにもおこがましい物体)を取り出して手渡した。

 ほんのり、酸っぱい香りが漂っている。

 だが、見た目はギリギリ、サンドイッチと言えなくもない。


「どうしたの?」

「いや……大丈夫かな、これ」

「大丈夫に決まってるじゃん」


 ミアはニコニコ顔で続ける。


「この前のパスタに比べたら、全然」

「パスタ?」

「ほら、お兄ちゃんが拾ってきてくれたやつ。土だらけで、石まで混じってて。結局洗って、味のない麺だけで食べたじゃない」

「ああ……」


 そんなものを食べているのか。

 そりゃあ、スラムのダニと呼ばれても仕方ないかもしれない。

 でも、どうしてここまで過酷な生活をしているのか……。


 俺はミアから怪しげなサンドイッチを受け取ると、少しだけためらって、口をつけた。

 やっぱり、少し酸味を感じる。

 だが、それ以上にパンの甘み、レタスらしき葉の青臭さ、マヨネーズソースの油分が口の中に広がって、脳に直接攻撃してくるような旨味が襲ってくる。

 腹に悪いかも、なんて考えは、一瞬でかき消された。

 次から次へと、大して噛みもせずに飲み込む。まだ足りない。もっと。もっと食べたい。

 小さなサンドイッチは一瞬で消えて、俺は手についたわずかなソースすら舐めとっていた。


「……お兄ちゃんガッツキすぎ」

「……ごめん……」


 袋の中から、もう一切れ出てくる。

 あれは、ミアの分。

 頭でそう理解していても、奪いたいような、下劣な欲望が頭をもたげる。


「……これ、私の」

「分かってる」

「……あんまり見ないでよ、食べづらいでしょ」


 そう言われても、目が離せないのだ。

 彼女が居心地悪そうにしているので、とうとう俺は我慢しきれず、「ちょっと外出する」と言って、小屋の外へと飛び出した。

 こうでもしないと、見てしまう。

 やや腐りかけの、どこに捨てられていたかも分からないサンドイッチ。

 それを、これほどまでに体が欲するなんて。


 俺は小屋の外に腰を下ろし、小さく席を1つした。

 また、血混じりの痰が出た。


 空を見上げる。

 錆鉄に覆われた、暗い天井が広がっていた。

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