風あざみと陽炎と (4)
リビングで理沙と圭子ちゃんの談笑する声がわずかに聞こえていた。イヤホンをして小さく音を流しているため内容までは分からない。生活と生活の重なり。理沙とふたりで過ごしていたときは新鮮な気持ちが勝っていたが、今は懐かしいという気持ちが最も強い。
部屋にはシングルベッドと机と本棚。圭子ちゃんは予備の布団を理沙の部屋に敷き、そこで寝ている。圭子ちゃんは基本的に生活圏を理沙と共有していた。元々理沙の部屋は大きく、圭子ちゃんも荷物がほとんど無かったため、特に問題は起きていないようだった。
ドアがノックされた。はいと答えると圭子ちゃんが部屋に入ってきた。遠慮がちに怖々と足を踏み入れる。白いパーカーを着ていた。理沙がよく着ているものの色違いだった。理沙が圭子ちゃんにプレゼントしたものだ。圭子ちゃんは自分で支払うと言ったのだが、理沙がそれを拒んだのだ。家族なんだからと、理沙は理由を答えた。
「仕事探しですか」
ちらりとパソコンの画面に目を遣りながら圭子ちゃんが言った。
「うん、まあね」答えて、パソコンをロック状態にした。「どうかした?」
「いえ、別に。お姉ちゃんから多分良さんは仕事探しをしているんじゃないかって聞いたので、どんな感じなのかなーって来ちゃいました」
「まあ、普通に仕事を探しているだけだよ」
「順調ですか」
「分からないよ。まだ見ているだけだからね。応募可能なところに困ることは無さそうという点では順調なのかな」
嘘ではなかった。応募は出来る。前の俺がちゃんと就職をして働いていてくれていたため、履歴書上はただの転職と変わらない。しかし五年間の記憶喪失という公的な事実がどう影響するのか、まだまったく分かっていなかった。
順調という言葉を圭子ちゃんはどうも信じていないようだった。相槌のひとつも返って来ない。むすっとした表情をして、どうしたら本心を語らせられるか考えをめぐらしているようにも見える。
居心地の悪さといったらない。それほど大した隠し事でないのがまたいけない。相談をするにはまだひとりで何もしていなさすぎて情けないというだけ。だから隠し通す覚悟もない。
少し乾燥した冬の気配にピリピリと肌が痛む。締め切った部屋と、扉の前に立たれているという閉塞感。それでも夕食を終えて各々が一日を終わらせ始める夜の時間はどこか間延びしていた。吹き溜まった沈黙から目を背けた。
「良さん」
圭子ちゃんが先ほどよりも声を抑えて名前を呼んだ。真面目な顔をしている。
「どうした」
「何かあったら、ちゃんと言ってくださいね。お姉ちゃんにはどうしてもいいづらいこともあるかもしれませんけど、わたしたちは仲間です。ひとりで抱え込まないでください」
じっとこちらの目を見つめていた。説得というよりは懇願をするようだ。言えと言われて素直に言わないことを知っているのだった。
たちまち視線を逸らしてしまった。自分の幼稚さに顔から火が出そうだった。何を今さらくだらないプライドを持っているのだろう。自分が何も知らないこと、自分に何も出来ることがないこと、その無力感をずっと噛みしめてきたはずだった。
「必ず言うよ、ありがとう」
自然と口をついて出た。思いのほか圭子ちゃんは驚いたようだった。ぽかんと口を小さく開けて固まっている。マイナスをゼロにしただけであって誇れるわけではないのだが、踏み出した結果には満足した。
「そ、それでは引き続き励んでください! よい就活を!」
圭子ちゃんが慌てて言った。逃げるように部屋から出ていこうとする背中に無意識に声をかけていた。
「ちょっと待って」
「なんですか!」
「いや、早速というか、やっぱりちょっと意見を聞いてもいいかな」
「……はい! もちろんですよ。任せてください」
そして大した内容も無く見栄の張りどころもない話をした。思えば嘘ではないと証明するためだけに引き留めた気がしないでもない。くだらないことを勿体ぶってすまない、自虐すると「そんなことを気にするのが駄目です」と窘められた。
「また考えておきますね」
晴れ晴れとした表情で圭子ちゃんは退出した。それを見て、彼女に出来ることと自分に出来ることを改めて考え直していた。それで、俺は「わたしたちは仲間です」という圭子ちゃんの言葉について考えはじめていた。後悔も憧れもある概念であるから、疑念を抱き完全にしないことで自分の世界に補償してやる必要があった。
椅子の向きを変えたところで、再びドアがノックされた。
「どうした? 何かまだあった?」
声をかけたが返事がない。てっきり圭子ちゃんが戻ってきたのかと思ったが、ドアを開けると今度は理沙が立っていた。ツンとしてどことなく怒っているかのようだった。
「ちょっと入っていい?」
ぶっきらぼうに言いながらもう既に部屋に入ってきていた。真っ直ぐベッドに向かっていき、そのまま腰を下ろす。腕組みをしている。パソコンの画面に一瞬視線をやった。つられて見ると、スクリーンセーバーが表示されていた。
「仕事のこと話してたんだよね?」
一瞬何の話か分からなかったがすぐに繋がった。先ほどの圭子ちゃんの来訪について聞いているのだ。
「うん、まあね」
「仕事のこと悩んでるんだよね?」
「あー……うん、そうだね」
理沙が悔しそうに唇を噛んだ。
「……理沙?」
「私には……相談してくれなかったのに」
どんどんと小さくなっていく声は嵐の前の静けさのようだった。室内が急に冷え込んだ気がした。
「いや、でも、聞かれなかったし……」
「あんな『今はほっておいて欲しいんだ……』みたいな雰囲気だしている人に聞くわけないよ! 馬鹿! そのくせ聞かれたら簡単に答えるなんてがっかりだよ! 誘い受け! ロールキャベツ野郎!」
苦し紛れの回答はどうやら間違いであったらしい。理沙は不貞腐れた様子からきっと睨みつけてくると、前のめりになっていじけたように詰りはじめた。
「やっぱり若い子がいいんだ」「圭子も何だか良に懐いてるし」
黙ってそれを聞いていた。言い返せなかったのではない。理沙が楽しそうに見えて、目を奪われていた。
「まあ、暗い顔をしているよりはずっといいんだけどね」
最後に微笑ともつかぬ笑みを浮かべて言うと、理沙は長い溜め息をつきながら後ろに倒れ込んだ。ベッドのスプリングがまるで久しぶりに人が乗ったかのように鈍い喜びの音をたてた。
そのまましばらく輾転反側していたが、おもむろに枕を抱きかかえたままむくりと起き上がった。
「でも、私もおろそかにしたら……拗ねるからね」
たっぷりと間をとって拗ねた声で言った。そして振りかぶると脛を狙って枕を投げつけてきて、理沙は部屋から出ていった。
と思ったが、ドアを閉じるか閉じないかの間際、ほっと息をつこうとすると再び勢いよくドアが開かれた。
「今週末はお台場に行きます!」
高らかに宣言すると、それだけで去っていった。誰も部屋を訪れる気配がなくなるのを待った。ひとりの時間が還ってくる。しかし、もう仕事探しを再開する気分ではなくなっていた。
本当に嵐のような来訪であった。最後の理沙の言葉は、一緒に行くぞということなのだろう。圭子ちゃんが部屋に籠りがちなのを気にしているのかもしれない。
パソコンのロックを解除して新しいタブを開く。以前のようにはなるまい。週末の天気予報を調べる必要があった。
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