愛の話はしていない (2)

 まだ深夜というほどでもない時間だったが、外はすっかり夜の闇に包まれていた。住宅地であるから、帰宅時間を過ぎると町全体がもう役割を終えたように眠ってしまう。

 独りになるために外に出たが、家以外に居場所があるわけでもない。どこか落ち着ける場所があったかと考えると思いつく場所はなかった。この町のことを未だによく知らないことに気が付く。財布も携帯電話も持ってこなかった。家から逃げ出した時は冷静に判断していると思っていたが、そんなことはなかったようだ。苦笑して、唯一思いついた場所へ足を向けることにした。


 道を歩けば、どこからともなく夜を過ごす人々の営みを感じる。母親らしき人の張り上げた声。筑前煮のような匂いは夕食だろうか。カーテンによって隔絶された生活がちらちらと漏れる。

 この町のことが嫌いだった。よくある住宅地だ。だからだろう、初めて見たときにも異国を訪れたときのような違和感はまるでなかった。それは大変遺憾なことであった。

 完全に違うものであればよかったのに。こんなに優しい姿をしていなければよかったのに。


 雪山で遭難すると、熱を求めるあまりに体が「今は暑い」と誤解してしまうことがあるらしい。それで衣服を脱ぎ捨てた状態で見つかる遭難者の姿があるのだとか。

 そんな話を聞いたことがあると、果たして今の自分が冷静なのかいつも疑ってかからねばならなかった。自分が幸福を感じてしまうこと、日常を感じてしまうこと、それらが自然な感情なのか防衛本能なのか分からなかった。


 せめて雨でも降ってくれたらと思う。自分を中心に成り立たない世界。自己を反映もしない世界。客観から変質した異常を以てして、己の投影をいつも知った。

 町はいつも通りだった。異世界に行く前から俺はこんな日常の中にいて、帰ってきて拒絶した町も、受け入れるようになった明日もそう。怪物の胃の底のような平穏に俺はいた。


 運動していると嫌なことを忘れるからいいなんて言ったりもするが、今の自分には役立たなかった。気付けば理沙のことを考えてしまうし、歩いているのかどうかすら覚束ない始末だった。



 リサがいない。もう帰って来ない。

 それを悟った時から走馬灯のように時の流れはゆるやかで、例えばゲームでバッドエンドが確定してしまったかのように心と流れている時間とが一致しないのだった。


 少し驚いた。自分はもっと薄情な人間であると思っていたから。圭子ちゃんにいつかリサの記憶は諦めろと言われてから、俺は確かに準備を整えていたと思う。

 悲しいかと問われるとそれは少し違う気がした。絶望的な喪失感がただあって、悲しみですら分からなくなり、感情が孤独な悲鳴をあげていた。


 なぜだろう。理由が本当に一瞬分からなかった。

 すぐに気付いた。 

 そうだ、リサのことが好きだったからだ。愛していたからだ。

 それは過去形ではなく、今も愛している。


 この世で最も大切な感情をなぜ俺は忘れようとしていたのだろう。

 俺が今もこうして生きていられるのはリサのおかげだ。だから、俺の残りの時間はすべて彼女のために使うと決めていたのに。


 過去を呪うように生きてきた。異世界に飛ばされたとき、そのしがらみから解放されたのだと思った。ただ求められる役割を果たすために生きようと思った。

 しかし現実は過酷だった。

 生は殺すことでしか得られないものだった。役割を果たすために生きようと思ったが、そのためだけには生きられなかった。自分の手ではっきり生を掴まなければならない、それに慣れることを許せないままでいた。

 結局元の世界のことも忘れられなかった。自分がいなくなっただけで、自分が迷惑をかけた人物は確かにまだ存在しているのだ。当たり前だった。元々既に関係の途絶えた人たちに罪悪感を募らせていたのだから。

 それで誰よりも最低であることを魂に刻みつけるように殺していた。


 だったのに、いつからだろうか。リサと共にいるようになって、彼女に誇れるような人間になりたいと思うようになっていた。

 自分とはまったく違う強さを持っていた彼女。それは自分にとってはじめての感情だった。

 迷ったときにはいつも考えた。こんな自分を見たら彼女は何と言うだろうかと。


 はたと意識が現実に引き戻される。そうだ、今の俺を見たら彼女は何と言うだろうか。

 ……いや、考えられない。リサのいない原因に自分が少なからず関係しているのに、とてもじゃないが考えられない。


 呪いに冒されていた。何も気が付かなかった。いつからリサは気付いていたのだろうか。ずっとそうだったのか。


「ふざけんなよ。お前。なんだそれ」


 無意識に自分に毒づいていた。確かに少し違和感はあった。だからこそ、やるせない。自分自身がどのような納得をしていたのかもはっきりと思い出せる。もしもの時には話してくれるはずだと思っていたのだ。リサの判断は理解できる。彼女にとっては話さないことの方が正しかった。

 後悔している自分が愚かなのだ。取り返しのつかない選択というものを理解していなかった。約束という言葉に酔い、甘美な夢想に耽っていた。思い返せばままごとのよう。俺たちは現実の世界よりもずっと優しい世界の上で二人の急所を隠していただけ。


 リサは信じてくれるだろうか。あれほど格好つけながら、俺はただ彼女のそばにいたかっただけだったのだ。最後までそばにいたかった。それだけが願いだった。そのために自分はどうしたらいいか考えただけだったのだ。


 まだ生きているのだろうか。痛みはあるのだろうか。

 苦しんでいないといい。泣いていないといい。

 異世界に行く前と何も変わらない懺悔を繰り返していた。


 やがて目的としていた場所が見えてきた。退院した日に理沙に連れられてきた公園。

 風が吹く。枝葉が重く振動した。やむと静寂が広がった。ばかみたいに不気味だった。

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