愛の話はしていない

愛の話はしていない (1)

 思考能力というものが完全に抜け落ちているような感覚があった。

 吐き気を催しそうな嫌悪感が体中を巡り、単純な感情に心も頭も乗っ取られてしまったかのようだった。

 現実がすっと遠ざかって、モニター越しに見ているかのような視界。

 その画面が切り替わり、リサの顔が浮かぶ。


 家族思いの優しい女性だった。出会った当初は真面目で臆病。臆病さも、信頼し合うようになってから仲間を守るために必要な警戒心であったと知った。

 朗らかな笑みをいつも浮かべていた。自身の納得は必ずしも必要とせず、今あるものを見つめることが出来た。実態のないものにばかりこだわってしまう自分にとって、なくてはならない存在だった。


 こみ上げてくる不快感があって、心象のリサが霧散する。

 今しがた聞いたばかりの言葉を反芻してしまう。


「記憶もなくなってないし、偽の記憶が上書きされていることも……たぶんない。私には違う人と言うのかは分からないけど、圭子の言ってる一緒に過ごしたリサは、私じゃないよ」


 夕食を終えた食卓に、残された時間を考えてしまうような寂しさがあった。時々痙攣するように光る蛍光灯。まっさらなキャンバスのような白い壁。シンプルなデザインの壁掛け時計は、もうすぐ二十一時になりそうという数字を刻んでいる。

 四人用のテーブルにL字型の配置で座っていた。俺と理沙が横並び。圭子ちゃんはいつもと違い俺の正面。誰も顔を上げている者はいない。


「ごめんね」


 理沙が申し訳なさそうに目を伏せた。


「お姉ちゃん、そういうのは……」


 血の気の引いた青白い顔をして、圭子ちゃんが弱々しく笑う。

 最も残酷に事実を突きつけられたのはきっと彼女だろう。純粋ばかりではないが、最近の圭子ちゃんには活力のようなものがあった。それが今、前借りしていた希望ごと失ってしまった。


「ごめん、本当なの」

「嘘。だって手紙を持っているじゃない」

「それは圭子がさっき言っていたみたいに、ふたりに届いているのだと思う」

「でも、花畑の告白のことだって知ってます。わたしたちのこともう何年も知り合いみたいだって言いました。今だって、全部分かってわたしと話してるじゃないですか」

「分かるわ。だって手紙に書いてあったもの。実は圭子と良からだけじゃなくて、私自身からもあったのよ。それで何となくは分かってるの」

「手紙は……手紙はあるかもしれないですが、でも、でも……」


 圭子ちゃんの目からはもう涙が零れていた。言うことを聞かない身体に苛立つように腿を叩く。


「そんな……だって、わたし奇跡が起きたんだって。頑張ったから。お姉ちゃんは良さんのことが好きだったから」


 涙声でそこまで言ったが、それ以上はもう話せなくなった。

 圭子ちゃんが泣き崩れる。理沙がやるせない瞳を向けていた。体を小さく抱え込むように腕を組んでいる。誰も受け止めることの出来ない嗚咽が響いていた。


「良も、ごめんね。こんなことになるとは思わなかったの。何か聞きたいことがあれば答えるから。もし何も分からなければ、全部説明するわ」


 平静を保った口調で理沙が言った。表情には困憊の色が見える。

 聞きたいことは幾らでもあった。しかし、同時にそのすべてに意味がないように思えた。


「理沙はさ、理沙だから、記憶が戻るとかそういうのはないってことだよな」

「……うん。そうだよ」


 言いにくそうにしながら、はっきり答えた。


「俺が一緒に旅をしてたリサはさ、死んじゃったのかな」

「……」

「俺は何してんだろう。馬鹿だな。気持ち悪いな」

「良さん!」


 圭子ちゃんが顔を勢いよく上げて叫んだ。


「ごめんなさい。わたしのせいだ! わたしのせいで!」


 追い縋るように俺の前へと移動してきて、膝をつき俺の服を弱々しく握り込んだ。そして頭を押し付けてまた泣きはじめた。

 羨ましいと思った。嫌味ではなく、しかし憧れでもなく。


「圭子ちゃんのせいじゃないよ。気にしなくていい」


 圭子ちゃんを丁寧に抱きとめて、ゆっくりと頭を撫でる。


「ごめん。本当に分かっているんだ。誰が悪いとかそういうことじゃないんだって。……でも、ちょっとひとりになりたいかな。少し外に出てくるよ」


 傷つけてしまわないように優しく圭子ちゃんの手を解き、席を立つ。圭子ちゃんはされるがままだった。何か言いたそうにこちらを見つめるだけで紡ぐ言葉はない。縋るものがなくなると肩を落としその場でうなだれた。

 これ以上何かが崩れるのが怖くて、音を立てないようにして移動した。自室から一番近い箇所に置いてあったコートを適当に羽織り、玄関へ進む。


「良」


 靴を履いていると理沙が声をかけてきた。不安そうに手を胸の上で握り込んでいる。


「必ず帰って来る。消えたりなんてしない。後で話をさせてくれ」


 返事はなかった。理沙は視線を彷徨わせて言うべき言葉を探しているようだった。


「じゃあ」

「待って」


 ドアノブに手をかけると理沙が慌てて言った。そしてそのままどたどたと奥へ引っ込んでしまった。何か探しているような音がする。緊張で手に汗が滲む。手紙を持ってくるのではないかと思ったのだ。リサの書いた手紙など、今見たら気が狂ってしまう自信があった。


 気付くと家を出ていた。俺は事実に向き合う強さも、理沙を直接拒絶するような強さも持ち合わせていなかった。


「ごめん」


 呟くと白い息が漏れた。思っていたよりもずっと寒い。

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