風あざみと陽炎と (9)
理沙は少し時間をかけて帰ってきた。力なく持ち上げて見せたコンビニのビニール袋には牛乳とゼリーが三つ。黙って冷蔵庫にしまっていた。帰ってくると、すぐにいつも通り夕食とした。
事務的な会話以外誰も言葉を発さず夕食を終えた。圭子ちゃんはひょっとして夕食には参加しないのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。客観的な行為のみに目を向ければ、普段通りの時間。黙っていたことから目を背ければと注釈はつくが、しかしそれはある意味、今日までの生活すべてがそうであったのかもしれなかった。
俺がタイミングを窺っていると、圭子ちゃんが先に切り出した。
「お姉ちゃん、聞いて欲しいことがあるの」
理沙は箸を置くと、緊張した面持ちで頷いた。
俺も背筋を伸ばし圭子ちゃんの言葉を待った。圭子ちゃんの考えを見極めなければならない。
「もう、やめませんか」
それだけ言って言葉を一度切った。理沙の反応を観察している。理沙は何の話か予想がついているようだった。目を閉じて息を吸うと、小さく首だけで何度も頷いた。
「さっきはごめんなさい。ひどい態度でした。でも、もうやめませんか。何か理由があるんだと思います。でも、あまりにも良さんが可哀そうです」
「……どういうこと?」
理沙が疑問を差し挟んだ。話が見えないのは自分だけかと思いきや、理沙もどうやら予想と外れたようで意図を汲み取れていないらしい。
理沙も何かを隠していることは間違いないはずである。それならどこかで噛み合いそうな気もするのだが。
圭子ちゃんは理沙に伝わらなかったことに一瞬むっとした表情を見せたが、すぐにまた真面目な顔を作った。
「もう誤魔化すのはやめてください。話してくれませんか。わたしはお姉ちゃんの力になりたいです。良さんの力になりたいんです。理由があるなら全部は無理でもいいんです。話せるところだけでもいいんです。だって、こんな歪なままじゃいつか壊れてしまいます。わたし、それは嫌です。だから、話してくれませんか」
圭子ちゃんはまた理沙にしか伝わらない言葉で答えた。
理沙は目を瞑り押し黙って、何か考え込んでいる。
一度目を開いてこちらを見た。目が合うと柔らかく微笑んだ。
またしばらく考え込んだ後、理沙は覚悟を決めたように頷いた。
「誤魔化してたわけではないんだけど、うん……私が話せることは話すよ」
圭子ちゃんが安堵の息を漏らした。
「ありがとう。お姉ちゃん」
「それで、私は何から話せばいいのかな」
「何から……?」
圭子ちゃんは困ったように笑みを浮かべた。素直に困惑しているようだった。
相変わらず二人の会話はなぜかすれ違っている。
「えっと、お姉ちゃんは結局戻ってきたということでいいんですよね? 隠してた理由とか、どうして戻ってこれたのかとか、教えてもらえたら嬉しいのですが」
その言葉を聞いた瞬間、今まで無視していた情報が頭の中で急速にパズルのように形を成し始めた。今、圭子ちゃんは「どうして戻ってこれたのか」と言った。
記憶を戻す、戻ってこれた、隠してた。もう記憶は戻っている?
「あー……なるほどね。そうか。……どうしてそう思ったのかだけ先に聞いてもいい?」
理沙はそれだけですべて繋がったようだった。納得と同時に溜め息をついた。
圭子ちゃんとあまりにも温度感が違うことが気になった。圭子ちゃんもその違和感をはっきり感じているようで反応に怯えが見える。しかし元々理沙が憎くてこの話を持ち出しているわけではない。素直に従って話し始めた。
「え、あ……はい。えっと、はじめにおかしいなと思ったのは良さんからお姉ちゃんが手紙を持っていると聞いたときです。実はわたし、良さんの手紙をお姉ちゃんに……あ、その、ずっと一緒に旅をしていたお姉ちゃんに届けてくださいってお願いをしたんです。だって万が一にもお姉ちゃんに良さんの手紙が届かなかったら嫌ですから。だから、お姉ちゃんが今手紙を持っているって聞いてなんでだろうって。はじめは疑問くらいでした。手紙がどっちのお姉ちゃんにも届くこともあるのかもしれないと思いました」
ようやく圭子ちゃんの言っていることが掴めてきた。
今いる理沙が手紙を持っていておかしいということは、別の理沙に手紙が届くはずだったということだ。それはつまり、異世界を共にしたリサは元の世界に戻る予定ではなかった。そしてそれを圭子ちゃんは知っていた。
それは可能性として認識はしていたが排除していたものだった。なぜなら意志が必要となるからだ。誰かが「理沙が元の世界に戻らない」ことを願わなければ起こり得ない。そんなことをする理由を持つものは自分の知る限り存在しないはずだった。
だがそれはそれとして、圭子ちゃんも知らなかったが実は理沙はちゃんと戻ってきていた。そしてそれを隠していた。それが圭子ちゃんの認識している状況のようだった。なるほど、圭子ちゃんが「記憶を戻せるかもしれない」と言ったのは、きっと元々記憶は忘れていないから理沙を説得するという意味であったのだろう。
だが、そうなるとなぜ理沙との話のずれが起きているのだろうか。
圭子ちゃんが、俺が可哀そうであると訴えた時、理沙は話を呑み込めていなかった。圭子ちゃんのいう通りであれば、理沙がよほど察しが悪いことになる。
もう一度考え直さなければならない。
今までの俺の思考には重大な欠陥があった。理沙が俺の手紙を見てまさか本当に異世界に行ったと思わなかったことと同じだ。
……いや、違うか。自分だけがただ弱かった。その事実と向き合うには自分の未来を肯定する自信があまりにも不足していた。
そのつもりで考えれば、ヒントはどこかにあったのではないか。
手紙を持っているならば、旅をしていたリサであるか、二人に手紙が届けられたかである。
今ここにいるのがリサならば、戻ってきたが何らかの理由で記憶喪失となっているか、隠しているかである。
全ての不可能を除外して残ったものが真実であるとはシャーロックホームズの言葉だったか。きっと正しいのだろう。その可能性を認められない者がいたとしても、残ったものが事実だ。
「ごめんなさい。良さんはよく分かりませんよね」
圭子ちゃんが考え込んだ俺の様子を勘違いして、謝罪した。
「お姉ちゃん、本当は戻ってこないはずだったんです。わたしとお姉ちゃんだけの秘密でした」
「どうして」
「呪いですよ。あいつの」
その言葉で最後のピースが埋まった。
異世界最後の日、理沙は医者にかかっていた。敵に受けた呪いの影響を調べていた。
問題ないと言っていたが、つまり嘘だったのだろう。
「やっぱり何か問題があったのか」
「はい……自我が蝕まれていたんだそうです。覚えてますか? この世界に戻ってくる方法を。自我と、記憶を移し替える。だから問題があったんです」
「自我が駄目だとどうなるんだ」
口にした言葉には隠しきれない苛立ちが宿っていた。
既にもう、最悪の想像に囚われていた。
「はっきりとは分かりません。あっちの世界なら消滅するのか、人格を奪われてしまうのか。こっちでも分かりません。死ぬ。廃人になる。奪われる。何にせよ、もしもの時に対抗手段のある方に留まるべきと判断しました」
少し怯えた様子はあったが、端的に結果だけを圭子ちゃんは答えた。今はこの話をしたいわけではないからか。これは何も知らない俺への状況説明だ。それは分かる。だが、圭子ちゃんは気付いているのだろうか。今、リサは事実の中で死んだ。その意味を。
「なんで話してくれなかったんだ」
おそらく誰も望んでいない言葉を発した。
圭子ちゃんは黙り続ける理沙の様子を窺いながら答えた。
「お姉ちゃんも悩んで決めたことだったんですよ。ね、お姉ちゃん。話しましょう。それで、ここからまたはじめましょう。だって戻ってこれたんですから」
賛同を求めるように圭子ちゃんが理沙を見た。
理沙はその視線を受けて痛ましそうに口許を歪めると、胸に手を当て何度か深呼吸をした。
「ごめん」
理沙がはっきりと言って、もう一度深呼吸する。
再び口を開こうとした瞬間、気が付くと口を挟んでいた。
「待ってくれ」
理沙は驚いて一度こちらを見た。しかし頭を振るだけで応えると、またすぐに話し出した。
「ごめんね。私は、違うんだ。私は異世界になんて行ってない」
きっとそれは、そんな風に申し訳なさそうに言わなければならない言葉ではなかったはずだった。
でも俺たちが事実をありのままに扱わなかったから。
「記憶もなくなってないし、偽の記憶が上書きされていることも多分ない。私には違う人というのかは分からないけど、圭子の言っている一緒に過ごしたリサは、私じゃないよ」
理沙が俺と圭子ちゃんの目を交互に見た。
少し幼い顔立ちをしていた。その理由も、今なら分かる。
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