風あざみと陽炎と (8)
「わたしに任せてもらえませんか」
圭子ちゃんの声はすっかり乾いていた。
何を任せろというのだろうか。理沙の記憶を戻す役割だろうか。
先ほどの理沙と圭子ちゃんのやり取り。二人ともが自分に隠していることがあるのがはっきりと分かった。それを二人が共有していないということも。
そうであれば、自分には誰の何も止めることは出来ない。気付けばなぜかすっかり蚊帳の外であった。
圭子ちゃんに向かって頷き返すと、彼女は礼を言って自分の部屋へと入っていった。
広いリビングに一人になった。部屋の電気を点けた。残ったのは、何も知らない俺だけだった。
何かがあることだけは分かっていた。いや、その可能性を想定していただけだった。無知ではあるが無自覚ではない。それが免罪符になると思っていたのだ。
カーテンが少し開いている。緑がかった灰色の遮光性が高いカーテン。窓は多分開いていない。朝には換気をするが、冷え込むようになって午後はまったく開けないことも多い。息苦しいかと思ったが、そんなことはなかった。開けても何も変わらない。解放感にも自然にも、どうしたってその概念の存在自体、結局それらが人為的なものであると主張しているようでならなかった。
それでもたまらなくなって少し換気しようと腰を上げた。わずかに窓を開けると隙間風が線香の煙のように冷気を漂わせた。くすぐるような寒さに身震いする。
いつもこうだ。内側から育てた意志など何も無くて、自身の人生の価値を否定されることにばかり怯えていた。人生において大きな出来事はいつだって無関係な誰かによって引き起こされたものだった。魔王を倒したこともそう。その前からだって、ずっとずっと。
俺の知らないところで何かが起こっていた。俺の知らないままそれは終わりへと向かい始めた。
それでいいと思っていた。大体が自分に出来ることなどたかがしれている。自分の手の届く範囲を精一杯することで懸命なのだ。自身の納得と大切な人たちの幸福を願うだけ。それ以上は傲慢だと。
俺の生きてきた結果が無様なほどに現れている。俺は自分に関係のないことには干渉できない人間だった。
今、耳を塞げど聞こえてくる心臓の音がする。
最後の常識的な感覚が気息奄々たる様で立ち塞がっている。
圭子ちゃんから「記憶を戻せるかもしれない」と聞いたときに、後ろ髪を引かれる思いが確かにあった。
正確な前提条件すら不明瞭な思考実験のようだと思う。果たして、記憶が違ったとしてそれは同じ理沙と言えるのだろうか。俺には分からない。でも分からないならば、俺は違う人格である可能性を無視してはならないのだと思った。俺たちが知るリサを取り戻すことは、今の理沙を犠牲にすることになってしまう。
理沙の記憶が本当に戻ってくるならば、それは望んでいたことだ。唯一描いた青写真。同じように圭子ちゃんも求めていたようだった。
自分たちの生き方を強制された俺たちが、誰の邪魔もせずに手に入れられる幸福だった。
だが、そんなものはもうなくなってしまった。
仕方ないとも言ってほしくない。勘違いをしていたのだ。
俺たちはきっと戻れないのだと思う。
英雄であった事実は消えない。
しかし、この世界は俺を英雄とは認識しない。
俺たちは自分で自分が英雄であったことに気を遣ってやらねばならなくなっていた。
リサを諦める覚悟を決めて、はじめて理沙を受け入れることが出来た。理沙がいなくなってしまう現実的な可能性に触れて、はじめて自分が差し出すものに気付いた。俺にとって「現状、滞りない」とは目的から逸れたゆえに正しい評価軸を持っていないだけの思考放棄に近かった。
夜道に理沙の姿を捜しはじめた。何度か亡霊のような幻覚を見た。暗闇にぼうっと浮き上がって心に温かいものを灯し、一瞬でも気を逸らすと散った。理沙が帰ってくるまで、それをずっと続けていた。
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