愛の話はしていない (3)
目的地には着いたものの、目的とする行為は特になかった。
どうせならばと展望台を目指そうと思った。懐かしい何かが、今の何かを変えてくれるのかもしれない。……何を? それは分からなかった。
行き先を示すように公園灯が照らす道をなぞり、進む。白線だけを踏み歩く子どもの遊びのように光の中心を歩いた。逸れたときには、死んでしまうかもしれない。
時折、冷たい視線のように突き刺さる風が吹いた。陰口のようにカサカサと鳴動する木々。うつむいたまま長く湾曲した坂を上る。何も考えないようにして歩を進めれば、やがて当然の結果として坂道を上り切った。
今日はまだ息が整っている。はじめてここに来た時には、自分のあまりの体力の無さに驚いたものだ。あれから毎日軽くトレーニングを続けていた成果が出ていた。
普段体をろくに動かさない生活のうえに、しばらくの入院明け。それと比べれば当然といえば当然だが、目に見える変化は少し気分が良かった。
入院明けということは、あの頃にはもう理沙は手紙を読んでいたのだろう。
だが半信半疑だった。きっと伝説の剣という言葉を口にしたのは、反応を確かめたかったからではないだろうか。中学生の妄想のような手紙、下手くそな嘘、すべてを知っていたなら見るに堪えない三文芝居だったはずだ。しかし、理沙はそれを幼子が演じる劇のようには決して見なかった。
理沙は知っていて、今まで俺といてくれた。理沙だったから、今日までやってこられた。それもまた疑いようのない事実と認識している。そもそもリサと理沙を別人と捉えるべきかはよく分からない。別人ではないのだと思うが、自分の中では違う存在として認識がどうしてもある。
展望台の階段を昇り切り、手すりに体重を載せる。体は案外楽だった。もう戻ってきた頃の体より、十分に馴染んでいる。体はある程度思うように動く。それに比べて心はどう動きたいのかも分からなかった。
手すりに接していた手の感覚が次第にぼんやりとしてくる。冷たさになれたか、麻痺してしまったのか。半歩位置をずらす。後悔するような冷たさがまだあり、少し安堵した。
そうしてまたしばらくぼーっとしていると、下から叫ぶ声がした。
「良ー! 良ー!」
自分の名前が呼ばれていると気付き、ぎょっと見返すと、そこにいたのは理沙だった。展望台の下で、膝に手をつき息を整えている。
「理沙!」
負けじと声を張り上げる。自分でもまだそんな元気があるのかと驚くような声だった。すると理沙は今俺の存在に気が付いたのか、一度こちらを見ると小走りになって展望台の階段へとかけよった。
そうして目の前に現れた理沙は、露骨にほっとした顔をしていた。
「良!」
隣にいるにも関わらず、理沙はさっきと変わらないのではないかというくらいの声で俺の名前を呼んだ。
肩で息をしている。額には汗。
あまりに愛しい存在に絶望してしまいそうになる。
「……来なくてもちゃんと戻った」
「側にいるって約束した」
ぶっきらぼうに言うと、なぜか少し得意気に理沙は答えた。
「ありがとう、理沙。でもいいんだ。いて欲しくない」
嘘をついた。そばにはいて欲しくない。そばにいると傷つくことが分かっていた。だが、そばにいてほしかった。そんな駄々をこねる勇気がなかったのだ。
俺はリサのことを守れなかったのだから。
そばにいると約束した。幸せにすると約束した。全部守れなかった。
「分かってる。ゆっくり考えを整理すればいいから。でも下で待ってるから必ず一緒に帰ること」
理沙はものわかりよくそう言った。俺が甘え続けてきた彼女の強さだった。
いつまで自分は、強い人に甘えて生きていくのだろう。
うなだれて分かったと答えると、理沙が鞄から何か取り出した。
「あと、これ。薄い上着掴んだなと思ったから」
差し出したのはマフラーだった。以前デートの時に貸してくれたものと同じ。
家を出る際にちょっと待ってと言ったのは、これのためだったのかもしれない。
一瞬、マフラーを片手に誰もいない玄関に戻った理沙の姿を想像した。
口の中で潰れた声でありがとうと言って受け取ると、理沙は黙って頷き立ち去った。
階段を下りる硬い音が静まると、またひとりの時間が返ってきた。
月が綺麗に見えていた。冴えた空気と潜む闇の緊張感が調和している。都会の明るさは星を隠すくせに、闇を祓うだけの輝きを持たない。それは結構、わざとそうしているのではないかと思っている。
理沙はゆっくり考えを整理すればいいと言っていた。
彼女はこんな時でも俺のことをそんな風に思ってくれているのかと驚いた。
何も考えたくなくて、何も感じたくなくて、いなくなったとは思わなかったのだろうか。
「ゆっくり考えを整理すれば」ではなく「気持ちが落ち着いたら」と言っても良いはずだろう。
……考え過ぎだろうか。そんなことを気にするくらいなら、もっと気付くべきことがあっただろうに。
ともあれ、確かに何も考えなしに戻っても良いことはないだろう。理沙にも、圭子ちゃんにも迷惑をかけてしまう。
必要なことはきっとこれからどうする、どうしたい。
すぐに答えは浮かぶ。
理沙と一緒にいたい。
しかし、それが本当の気持ちなのか分からない。
リサのことを間違いなく愛していた。だが理沙もそうなのだろうか。
リサとの記憶があるから、理沙も好きだと思っているのではないのか。
偽物の感情で向き合う恐怖が消えない。
そもそも、自分には理沙と一緒にいる資格がきっとない。
リサのことを何も分かっていなかった自分。守れなかった自分。その負い目。
理沙を幸せにできる自信が、もうない。
どうしたらいい? そう理沙に問いかけたくて、園内を見下ろした。
その時だった。公園に続く外の坂を赤いものが通過した。
車のような速さではなく、大きさは距離感もあって曖昧ではあるが人の頭くらい。
そう、丁度赤い帽子を被った人間が移動しているような……。
そんな具体的な連想をしたのは、ずっとどこかその危険を忘れていなかったからかもしれない。
はじめてこの公園に来た時にすれ違った怪しい赤帽子の男。
理沙が言っていた。
通り魔がまだ捕まっていないと。
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