愛の話はしていない (4)
見間違いではないかと一瞬考えた。
既に精神の疲労は限界であったはずだし、先ほどから過去のことを繰り返し思い起こしていた。咄嗟に何か見たものを不安と結びつけてしまうには最もあり得る状態であるだろう。
だが、もし。もし、あれが本当に通り魔だったら。
同じことを繰り返すのかと自分に問うた。
言い訳を積み重ねた後悔にまた塵が積もろうとしている。
気づけば手に油汗が滲みはじめていた。心臓の拍動も乱れている。
一度、深く息を吸った。
簡単な話だ。見間違いであったところでだから何だと言うのだ。見間違いでなければ一生後悔する。
声と判別のつかないような叫びをあげると、錆びついた体を強引に動かした。なぜか涙がじわりと滲んでくる。
展望台の階段を駆け降りながら思考を働かせる。
もうすぐそこまで来ていた。普通に坂を下りるのでは時間がかかり過ぎる。スピードが出しづらいわりに距離も長い。
展望台を下りた。もう方法はひとつしかないと思っていた。坂に向けて進路をとらず、直線距離の一番短いルート、ほとんど崖のような急勾配となっている山の斜面へ向かって走る。
一瞬の躊躇もなく柵代わりとなっている灌木を飛び越えた。そのまま身を投げ出す。頭から飛び込まないことにだけ意識を向ける。草木がうめき声のような音を立てた。鋭い痛み。だが着地自体は成功した。後は無我夢中で舵をとりながら斜面に相対する。
枝が顔にあたり皮膚を裂く。マフラーが何かに引っかかり、力いっぱい引き寄せる。無理矢理に手をついて体のバランスを整えながら、下りるというよりはほとんど滑落した。
そして、水平な場所に出た。側溝脇に生えた灌木に為す術もなく突っ込み体が止まった。
視界が開けている。目の前には公園灯。なんとか一番したまで辿り着いたようだ。
「……なに?」
恐怖に震えた理沙の声が聞こえた。
生きている。
安堵したのも束の間、すぐに跳ね起きて理沙を探す。
「理沙!」
這い出して園内に踏み込むと、その姿はすぐに見つかった。俺の激突した灌木の目の前に置かれたベンチ。その前でひどく怯えた様子で立ち竦んでいた。周囲には誰もいない。
緊張と集中がまた戻ってくる。
この世界には超常現象なんてない。耳をすませば聞こえる。目を凝らせば見える。必ず。
痛む足をかばいながら理沙に寄る。握り込めるくらいの大きさの石を拾いながら話しかけた。
「理沙。あいつは?」
「え、あいつ? 誰? 何?」
「もちろん、指名手配の……」
思うように声が出ない。肺が潰れたように絶え絶えだった。
「え? 指名手配? 何? というか大丈夫?」
分かりやすく狼狽して理沙が言った。どうも会話が噛み合わない。何だかいやに既視感のある場面だ。精神の高揚が徐々に冷めていくのを感じる。
それでも細心の警戒心をもって、理沙に質問を続けた。
「この公園に誰か入ってきたりはしなかった? 上から、怪しい人影を見て、それで急いで来たんだけれど」
「……うん、来ていないと思うよ。一応私も誰か来ないかは気にしていたから」
俺に合わせて神妙な様子で理沙が答えた。
それを聞いて、ようやく気を張っていたものが緩んだ。
何に怯えていたかと聞くと、それは俺がたてた音に驚いただけ。
「なんだ。よかった……」
ふっと肩の力を抜くと、それで俺の体はすっかりおかしくなってしまったようだ。体中の痛みが唐突に自己主張を強め、足腰にもまったく力が入らなくなった。自分の体も支えきれなくなり、空が傾く。地面への激突を覚悟した時、思ったよりも柔らかい衝撃に迎えられた。
「馬鹿だなあ。良は」
理沙に抱きとめられていた。柔らかなコートの毛が鼻をくすぐる。甘い匂いと彼女の生命そのものといった熱。
その熱が燻っていたどこかの感情に火をつけた。
嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、惨めでもあり、悲しくもあり。
こらえようもなく涙が溢れてくる。嗚咽を漏らして、子どものようにただ彼女の優しさに縋った。
わずかな時間、あるいはとても長い時間そうしていた。
やがて理沙に支えられながらベンチへと移動して、ふたり並んで座った。一息ついて、ようやく自分の体を支えるだけの気力が回復する。
俺を案じて理沙が尋ねた。
「えっと……色々大丈夫? 怪我とか、あと考え事とか。まだ私は待っていた方がいいのかな」
「いや、いいよ。さすがに理沙をひとりにはもうできない……というか、違うか。俺の方がボロボロなのか」
「そっかそっか……じゃあ……帰る? タクシー呼ぼうか」
このまま帰っていいのか? 自分に問いかけ直した。
いいわけがない。まだ何も言葉を交わしていない。
理沙の手の上に自分の手を重ねて言った。
「もう少しだけ、こうさせて欲しい。理沙とちゃんと話がしたい」
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