愛の話はしていない (5)

 分かったと言って、理沙は頷いた。しかし不安そうな表情は崩していなかった。


「でもあの……怪我は本当に大丈夫? 骨が折れてたりとか……」

「このくらいなら大丈夫だよ。骨は折れてない。……そういうのは、分かるようになったんだ」

「そっか……プロの判断なら、信じるしかないね」


 迷いながらも、俺の少しおどけた調子に理沙は合わせてくれた。

 さらに理沙が続けた。 


「あ、ちなみに圭子のことは心配しないで。ちゃんと話してから来たから」


 言われて思い出した。そうか、理沙がここにいるということは圭子ちゃんがひとりになっているということであった。視野の狭さ、余裕の無さを改めて実感する。ああ……本当に駄目だ。

 小さな声で返事をする。わずかな沈黙。すかさず理沙が口を開いた。


「さっきのは、つまり私のことを守ろうとしてくれたんだよね? ありがとう、良」

「いや……馬鹿みたいに勘違いして、無駄に怪我しただけだよ」

「そんなことないよ……前もこんなことあったね」

「ああ、あったな。あの時はたぬきに驚いたんだっけ」


 自嘲して言うと、理沙は今度はそれには乗らず真剣な表情をして言葉を返した。


「うん、あの時も私を守ろうとしてくれた」


 守る、という言葉に胸が痛んだ。そんなことないと心が叫びたがっていた。


「やめてくれ。俺は結局何も守れてなんかいないんだ」

「異世界での私の話、だね」

「……ああ」

「そんなことないと思うけどなあ。私からの手紙にも、そんなこと書いてなかったし」

「それは……理沙が優しいから。こんな俺でも信じてくれていた」

「でもさ、どうしようもなかったんでしょ? よく分からないけど、呪いだってね。うん……いかにもやばそうな響きだ。誰にも治せないものなんだからしょうがないじゃん。そんなこと良なら分かってるはず。何が許せないの?」


 平行線をたどる議論だ。責任の話ではない。善悪の話ではない。極めて個人的な話なのだ。妥協すべき方をあえて選ぶなら俺なのだ。ただ、妥協出来なかったことを人生と呼ぶだけ。

 きっと彼女も俺がそう考えていることは分かっている。その上で些細なことだと伝えるためにあっけらかんと振舞ってくれている。だが、それに応えることはやはり出来そうになかった。


「それこそ、理沙なら分かるんじゃないか?」

「うーん……分からないかな。私は多少悩んだろうけど、良には秘密にしたいから隠していたわけで、それで『私が苦しんでいることに気が付けなかった』なんて言われたら、お門違いもいいところだし。『何も力になれなかった』なんて言われたら、私のこと何も分かってない! って怒ってしまいそう」


 わざとらしく聞こえる言い方をしていた。事実ではなく理想を語る手段。決して譲ることができないと伝える作為。


「無理言うなよ。俺には選ぶことが出来たんだ。俺がもっと聡ければ気付くことが出来たんだ」

「まあその気持ちは分かるけど……でもこれだけは確認させて。それが、当時の自分にはどうしようもなかったのだと理解したうえで後悔してる?」

「酷なことを言わせるなあ。それは、分かってるよ。何もかも忘れた状態で何度繰り返したって、俺は同じ答えを選んでいたと思う」


 そこではじめて理沙は深く頷いた。それから見せつけるように何度も小さく頷いた。


「そっかそっか。じゃあ今悩んでいることはなに? 今度はちゃんと守れるかどうか不安?」

「もちろん、不安だよ」

「じゃあ私はもう別に守ってもらわなくてもいいから関係ないね」

「……え?」


 予想外の言葉に間抜けな声が出てしまった。


「異世界での私は知らないけど、私は別に守ってもらう約束なんかしてないもの。それは契約外」


 理沙の態度は相変わらず。大したことないとでも言わんばかりに平然としている。


「そもそも、良は行為を約束することにこだわっているじゃない。そこだけは意志の問題だからって。なのに、駄目な時だけ結果でくよくよするのは、あまり心に良くないと思うよ」

「いやいや。約束とかそういうことじゃなくてさ」


 そういうことではないはずだが、どういうことなのかは分からない。

 論点をずらされ丸め込まれてしまいそうになっている気がして落ち着かなかった。


「じゃあ何? プライド? ポリシー?」

「いや、プライドというか……あるだろう。果たすべき責任みたいなものがさ」

「ごめん、別に責めてるわけじゃないよ。そういう気持ちは嬉しいし。でも、それで負い目を感じるとかなら、私としては物申さねばならないから」


 強い意志を秘めて俺の目を見つめてくる。凛とした態度。その先の言葉は聞かずとも分かった。そして俺はそれを受け入れられない。


「私だってあるよ、そういうのは。でもそれが今足りないから相手といる資格がないなんて思っちゃったら本末転倒じゃない」


 やはり、そうなるだろう。分かるのだ。ずっと一緒に過ごしてきた。その優しさに憧れてきた。


「……ごめん。理沙が正しいと思ってる。でも俺は、どうしても自分が許せない」

「いいよ、それは。しょうがない」

「ごめん」

「だけど、良はとっても幸せ者だね」

「……え?」


 つい先ほどと同じような驚きの声をあげると、それを聞いて理沙はいたずらが成功した子どものように笑った。


「だって私たち、一緒に頑張ろうって約束してるじゃない。どうしようもないことってあるわ。呪いなんて本当にそう。何をしたらいいのか分かんないけど、とにかく頑張るしかないわ」


 理沙はことさら元気に言ってみせた。こちらに顔を向けて、そうでしょと笑う。つられて歪な笑みを浮かべて見つめ返した。頷くことはできなかった。

 目を伏せて言った。


「何だよ、それ。頑張るって……何だよ」

「何って……頑張るは、頑張るじゃない?」

「何をどう頑張ったら、これが良くなるんだよ。俺にはそれも分からないんだ」

「だから、私は別に正しい努力をしようなんて言ってないでしょ。行き当たりばったりにやっていこうよ。間違ってもいいから。その時は一緒に行き当たって、ばったりしよう」


 本当に同じ話をしているのか不安になるくらい明るく理沙は言った。呑気な様子で独り言のように続ける。


「あれ、そういえば『ばったり』って死んでることだったりする? じゃあ行き当たりゆったりとか。いや、行き当たりまったりが語感的に完璧?」


 その声は気楽で、切なくなるような懐かしさのある響きであった。肩の力が抜ける笑い。難しく考えすぎだよと言って、いつも気付くと答えを手に入れていた。

 彼女は価値観の共有できないことを伝える術を知っていた。それは、こだわりのために全てを投げ捨てるような古い魂に向けられるべきではないものだった。


 星なんてろくに見えない夜の下、陳腐なスポットライトを浴びながら希望を語る姿は市井のヒーローのよう。

 ずるくて、庶民的で、一所懸命で。

 今までで一番美しい顔をしていた。 


「何でそんな…………俺はもう本当にどうしようもないんだ。理沙をそうして振り回しても、結局何も見つけられないかもしれない。正しいことなんて何も分からないかもしれない」

「いいよー別に。そもそも何を見つけるのさ。もう勇者だって辞めたんでしょ。倒さなくちゃいけない魔王も、救わなければならない世界もないじゃん」


 理沙は真面目な顔であっけらかんとしている。

 喉を強く締め付けてくる感情があった。

 叫びたい。泣き出したい。結局、歪んだ表情のまま嘔吐いてしまった。

 理沙が驚いて背中をさすってくれる。


 驚くべきことに理沙と一緒にいられない理由はそれで尽きていた。

 勇者じゃない。魔王もいない。何も見つけられない。それでいい。

 俺はほとんど信じられない気持ちでそれを受け止めていた。


「そんなの……そんなの、いいのか? こんなに情けないのに。そんなこと」

「いいのいいの。一緒に頑張るっていうのはそういうこと。頑張って生きていこう。一緒に」


 繰り返し言われて思い出すことがあった。そういえば、異世界から帰る直前にも、デートの時にも、理沙は「一緒に頑張ろう」と確かに言っていた。ずっと前から、彼女はそう覚悟していたのかもしれない。或いは、俺がこんな風に悩むことすら見越していたのかもしれない。


「何だよそれ……格好良すぎるじゃん。何でもありじゃないか」

「そういうことよ。だって良みたいな面倒くさい人はこうでもしないと助けられないもの。参考にしてくれていいわ」


 穏やかに、誇らしげに理沙は微笑んでいた。

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