風あざみと陽炎と (3)

 圭子ちゃんがやってきて初めての週末、近所のスーパーへと三人で買い物に出かけていた。理沙がよく行くスーパーなどの説明をしたいのだという。月曜にやってきて五日間、圭子ちゃんは家を出ていなかった。部屋にいて理沙が所蔵している本を読んだり、テレビを見て過ごしていた。今までずっと外に出ずっぱりだったのだから窮屈ではないのかと尋ねると、冒険はもう充分ですと陰気な笑みを浮かべて答えた。

 だが外に出るのが億劫であるのかというとそうではないらしく、今日は朝から上機嫌であった。朝一番にカーテンを開けると天気予報通りに快晴であることを視認して「よし、晴れ」と呟くのを耳にした。

 家を出てからも、理沙の主導で説明するというよりは圭子ちゃんの質問に振り回されるように理沙が回答する形になっていた。


「お姉ちゃんは良さんのどんなところが好きなんですか」


 圭子ちゃんがごく自然な会話であるかのように理沙に尋ねた。

 おかしい。つい先ほどまで電車のダイヤグラムについて話していたはずだ。

 理沙の顔に赤みがさす。息を吐く間があって、しかめ面をした。


「私のことを一番に考えてくれるところ、とか」


 厳しい表情をしたまま答えた。今度は俺が赤面する。理沙も嫌ならば答えなければいいものを「こういうことを言わなくなるのはもっと嫌」と言って、照れて怒りながらも毎回必ず答える。それだけならまだしも「良がはじめに言ってたんだよ。今は思わない?」とも言ったものだから、俺も聞かれたら答えるしかなくなってしまった。それが分かっているから圭子ちゃんも何度もこういった質問をしてくる。

 しかしそれもまた仕方のない側面はあった。一番話題にしやすいのだ。会話の応酬の中で踏み込まれたくない過去に矛先が向くことも少ない。

 探り探り、どちらかといえば保守的で、しかし心の底では相手を慕う気持ちがある。実情はともかく、表層的には俺たち三人の関係性は違和感なく進行していた。


 理沙が町の案内を無理矢理再開する。今から行くのが平均的に安いスーパーで、逆の道を行くと特売の時だけ異様に安い別のスーパーがある。そっちは来週月曜に良に案内させるから、その二つは覚えておくように。娯楽といったらカラオケくらい。


「圭子は趣味は何かあるの? 日中暇になるでしょう。何か欲しいなら言っていいからね」

「趣味はないですね。でもテレビは好きです。何もなければずっとテレビを見ていられます」


 なんでもないことのように答えた。そういえば確かにそんなことを言っていた。旅の途中にも休息の時間は何度もあった。そんな時圭子ちゃんは「テレビくらいしかしたことない。何をしていいか分からない」と言って部屋に閉じこもっていた。そんな圭子ちゃんを理沙と二人で町へ連れ出した。


「アメリカでも? 結構英語分かるんだ」

「いえ、分かりません。でも音を出さないで見るのであまり関係ないんです」

「音を? 出さないの?」

「はい。音をたてると母に怒られたので。なんだかそれで慣れてしまいました」


 理沙が気まずそうな顔をした。助けを求めるようにこちらへと視線を投げかけてくる。ばっちりと目は合ったが、わざとらしく視線を逸らした。圭子ちゃんの母親は厳しい人だった。怒られるという表現がただ注意されることを表しているのではないということは想像に難くない。

 しかし多分理沙が思ったほど圭子ちゃんは気にしていないはずだ。実際にそれを経験していたのは五年以上前のことであるし、それを乗り越えるだけの強さももう持っている。返事はしようと思えば出来た。だが、なまじ自分が本来知っているはずのない情報を知り過ぎているだけに、何と答えるのがよいのか咄嗟に判断がつかなかった。


「あー……なるほどねえ……」


 間を繋ぐように、そして何となく話が終わったかのように理沙が曖昧に濁した。最後にもう一度こちらに一瞥をくれた。変わらず白々しい態度を取ると理沙も諦めたようだった。


「えー……あ、そういえば。圭子、最後に私と会った時のことって覚えてる?」


 あ、と声が出そうになったのをなんとか抑えた。先の会話を続けておけばよかったと一瞬後悔した。だが、いつか来るかもしれないとは思っていた。自分の目の前でこの話題が出ただけでも僥倖だ。

 息を呑んで圭子ちゃんを見つめた。表情を意識的に殺す。理沙はおそらく、最後に圭子ちゃんと交わしたという言葉の意味を聞くだろう。圭子ちゃんはその回答を用意しておくと言っていた。聞いてはいないが、きっと上手くやってくれるはずだ。

 踏切が丁度目の前で音を鳴らした。理沙が足をぴたりと止め、背筋を伸ばした。


「えっと、最後はいつになるんでしったけ」

「群馬のさ、山だよ。何て言ったかな。ほらあの変な長い名前の宗教団体の集まりがあったときなんだけど」

「あ、うん。五年前くらいかな。覚えてますよ」

「あの時、最後に圭子が私に『もうちょっとだから待ってて』って言ったんだけど、それも覚えてる?」

「……うん、言ったかな。言ったのかも」

「あれがさ、どういう意味だったのかなって。実はずっと気になってて。良かったら教えてもらえないかな」


 圭子ちゃんは腕を組み、首を傾げ「うーん……」と唸った。


「今となってはなんじゃそりゃーって感じですけど、あの時はあの日の儀式でわたしたちは真の自由を手に入れるって信じていたんです。理屈はよくわからなかったんですけど、この苦しいのがなんとかなるという話で、いつの間にかこれを信じなかったらわたしは死ぬしかないんだとまで思ってました」


 理沙は真剣な表情をして話を聞いていた。もう気まずそうな雰囲気はない。

 急行列車が通り過ぎた。踏切が上がった。圭子ちゃんが一歩前に先んじて踏み込み、こちらを振り返った。


「だからもうすぐ自由になれると信じてて、それで自由になったらね、わたしはお姉ちゃんとまた遊びたいと思ってたんです。わたしの唯一楽しかったときでしたから。だからです。だから、もうちょっとだから待っててって、言いました」


 理沙は足を止めたまま顔を俯かせていた。


「そっか。そうなんだね」


 小さく無意識に漏れ出たように呟いた。再び顔をあげたときには悲しげに笑みを浮かべていた。


「早く渡らないと、また電車来ちゃいますよ!」


 圭子ちゃんが元気に急かした。表情で、声音で、今は何ともないのだと伝えようとしていた。今の理沙は知らないだろうが、圭子ちゃんは本当に成長したのだ。圭子ちゃんと理沙の力だった。

 理沙はいつか思い出すだろうか。圭子ちゃんの感謝はいつかすべて伝わるのだろうか。圭子ちゃんと再会した刺激によって記憶が戻る様子は微塵もないように感じていた。

 今の思いがたとえすべて伝わったとしても、それを獲得するに至った思い出までは伝わらない。歯がゆかった。だんだんと切り離されていくものであるとしても、俺は一緒に忘れていきたかった。

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