風あざみと陽炎と (2)

 少し雲の厚い日だった。朝から気温が低く、温度は控えめに設定してエアコンを稼動させた。もう秋も終わったかと思えば、来週には気温が八度上がるという。衣替えのタイミングが分からなくて困るとぼやいたところ「でも今日は鍋が美味しくなるよ」と理沙は答えた。それですっかり鍋モードとなったのか自作の鍋の歌を歌いながら今朝は仕事へと出かけていった。

 十時間ほど前の出来事である。しかし奇怪な旋律がなぜか頭に残っており、白菜を投入しながらつい口ずさんでいた。


「変な歌ですね。スーパーで流れてましたか」


 あきれた声で圭子ちゃんが言った。


「いや」


 違う。これは君の姉が作った歌だ。俺はもう頭から離れない呪いにかかってしまったが君は逃げてくれ。そのはじめの否定をしたタイミングで、インターホンが鳴った。

 途端に緊張がはしる。圭子ちゃんは露骨に驚いて、一センチほど一瞬浮いていた。何も言わずただただ俺に視線を投げかけてくる。それを背に受けながら応答のボタンを押した。全体的に茶色っぽい色調でまとめられたオフィスカジュアル姿の女性が映る。その女性は通話状態になったことを確認するとやや無理したような笑顔を作り、手を振ってみせた。


「あ、理沙です。ただ今帰りましたー」


 それだけ言ってカメラの前を去った。ほんの数秒の出来事。理沙は家の鍵を持っているので、普段はわざわざインターホンを押しはしない。圭子ちゃんへ配慮してのことだろう。

 室内はいやに静かであった。こちらが返事をする前に訪問者が立ち去ってしまったからだ。鍋の音だけがしていた。圭子ちゃんがまさか失神してまいかと思いながら振り返ると、緊張の一段向こうへと到達したかのような覚悟を決めた表情をしていた。


「帰ってきましたね」


 そう呟くとゆっくりと立ち上がり、そのまま玄関へと向かっていった。足取りはしっかりとしている。俺も玄関が見える位置まで移動した。圭子ちゃんが途中で足を止めることはなかった。玄関に着いたとき、見計らったかのようにドアノブに鍵が差し込まれる音がした。今度は驚かなかった。


「ただいまー」ドアを開きながら理沙が言った。「あ、圭子も来てたんだね。いらっしゃい」


 不自然なほど自然な能天気さだった。わざわざ後ろ手でドアを丁寧に閉めた。玄関ホールに鞄を置いてゆっくりと靴を脱ぐ。誰も何も喋らなかった。いつもならおかえりとすぐに返すのだが、今日は先に言葉を発する人物がいると思い黙っていた。重苦しい空気が流れていた。

 靴を揃えた理沙はわざとらしく「よいしょ」と言いながら振り返り立ち上がった。それは少し冷えた空間に空しく沈んだ。一度圭子ちゃんの方に顔を向け、次に廊下から覗く俺を見た。どうすればよいか困惑し、眉を曇らせている。


 助け舟を出すか迷った時、圭子ちゃんが一瞬いやに高い声で何か言った。俺も理沙も同時に圭子ちゃんを見た。耳に残った音から意味を手繰ろうとした時、圭子ちゃんがまた何か言った。今度は言葉ではないと分かった。

 泣いているのだ。肩を震わせ嗚咽を漏らしていた。やがてこらえきれなくなったのか、しゃくりあげはじめた。俺も理沙も何も言えなかった。それは異常な熱量を持っていた。徐々に意味のある音声を形成し始め、やがて「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と繰り返しはじめた。頼りない小さな蝋燭の火が燃えているよう。このまま泣き続けたら死んでしまうかもしれないと思った。いっそ死ぬために泣いているようにすら思えた。

 平気なはずがなかったのだ。今までの方がよほどおかしかったと勝手に納得した。理沙の記憶がないようだと伝えた際、圭子ちゃんはそれほど動揺した様子がなかった。今思えば、俺がよほど衰弱していたから弱音を吐けなかったのかもしれない。俺はそこに安心以外の何も見出そうとしなかった。


「どうしたのさ、まったく」


 優しく理沙が言った。圭子ちゃんをふわりと包み込むように抱きしめた。


「私はここにいるよー。ちゃんといる。私はここにいるからね」


 子をあやすように背中をさすった。圭子ちゃんはそれで安心したのか余計悲しくなったのか、ますます激しく泣いた。「ごめんなさい」と細い声で言った。


「うん、許した」

「ごめんなさい」

「うん、許す」

「ごめんなさい」

「全部、許す。だから、全部言っておきなさい」


 圭子ちゃんは泣き続けた。理沙の胸の中で「ごめんなさい」と何度も繰り返した。

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