風あざみと陽炎と

風あざみと陽炎と (1)

 遠くで十七時を告げる学校のチャイムが聞こえた。少しくぐもって反響している。学校のチャイムなどどこも同じ音のような気がするがどうにも違和感がある。しかし、ふと自分の学生時代を思い返してみてもつい先ほど聞いたばかりの音で再現される。こうして感傷的にはなってみせるが、チャイムの音など自分にとっては重要な思い出ではなかったのだ。センチメンタルになりたがっているように思えて嫌悪感を催す。

 ため息をつくと同時に自室のドアがノックされた。


「良さん、十七時です」


 ぎこちなく圭子ちゃんが言った。ドアの奥に向かって礼を言い、椅子から立ち上がった。部屋から出るとリビングで険しい顔をしながら背筋を伸ばし座る圭子ちゃんの姿が見えた。両手は膝の上に置かれ、肩は縮こまっている。すっかり緊張しているようだ。夕食の準備のために十七時頃になったら声をかけてくれと圭子ちゃんに頼んでいた。丁度教えてくれたのは緊張ゆえか、圭子ちゃんの生真面目さか。


 デートから二日後、ついに圭子ちゃんが家を訪れていた。理沙は働いているため、まだいない。あと数時間もすれば久しぶりの対面をすることになる。元は日曜の予定であったが、理沙のいない間に最後の打ち合わせをするために一日ずらした。その打ち合わせも既に終わり、後は理沙の帰宅を待つばかりである。

 圭子ちゃんは何度も壁にかかる時計に目を遣っていた。おそらく自分がそうしていることにも気が付いていないのではないか。久しぶりの再会ということもあるが、理沙には嘘をつかなくてはならない。上手くいくのか気が気でないのだろう。

 俺も緊張していたが、圭子ちゃんと同質のものではなかった。今回自分は演者ではない。もちろんフォローが必要であればするが、基本的にはなるようになるしかない。それにどう転んでもそこまで悪いことにはならないだろうと考えていた。一番の気がかりは理沙と圭子ちゃんがまた仲良くなれるかどうかだった。

 とにかく今自分に出来ることといえば極力自然であることを意識するのみであった。理沙に違和感を感じさせない努力をするのは自分の役目だと自覚していた。それで圭子ちゃんの緊張が少しでもほぐれるのであれば言うことはない。


「圭子ちゃんはくつろいでいてもらって大丈夫だよ」

「いえ、そんなわけにはいきません」


 一応声をかけてみたが、圭子ちゃんは強く首を横に振った。一緒に長い黒髪がさわさわと揺れる。約束通り金髪は元に戻してくれていた。ぬば玉色が白いニットに映えている。髪の色が同じになるとますます理沙とよく似ていた。


「何かやっていた方が落ち着くのですが」


 瞳の奥を揺らしながら圭子ちゃんが言った。緊張がピークに達しているのか顔が白かった。確かに何か頼んだ方が良いのかもしれない。分かりやすい単純作業はあった。しかし無心になるのも悪くはないが、この状態でいざ理沙が帰宅となった時に頭が働くのかは不安だった。滞りなく進むのなら、当然その方がいいのだ。


「シミュレーションだけもう一度しておこうか」


 迷った末、もう一度練習することを提案した。急に詰め込んだ知識も関わるため、別の作業よりも反復をする方が落ち着く効果もあるのではないかと思ったのだ。それに打ち合わせから数時間ではあるが時間も経っていたから、念のために確認はしておきたかった。頭が真っ白になった時に出てきやすいのは練習したことであるとも思う。

 圭子ちゃんは黙ってこくりと頷いた。椅子を引き、圭子ちゃんと面と向かい合うようにして座った。時計を一瞬確認し、夕食の準備にはまだ余裕があることを確かめた。


「まずははじめに謝る」

「まずははじめに謝る」

「次にこれからお世話になります。よろしくお願いします」

「次にこれからお世話になります。よろしくお願いします」


 圭子ちゃんはうわ言のようにオウム返しをしてくる。


「……一応だけど、そのまま言ったら駄目だからね?」

「分かってます。大丈夫です」


 少し茶化すと真面目に返された。怒っているという風ではない。余裕の無さから近視眼的な受け答えになっているように見えた。


「圭子ちゃん、緊張してる?」

「えっと……はい。ごめんなさい」

「いや、いいよ別に。というか、練習通りに話せなくても全然構わないからさ」


 圭子ちゃんが意味を理解するまでには少し時間がかかった。瞬きを繰り返す。間をおいて、圭子ちゃんは怪訝な表情をした。


「えっと、すみません、ありがとうございます」

 

 そう言うと、弱々しい笑みを浮かべた。どうも気を遣っていると思われたようだ。


「いや、本当にそうなんだ。だって仮に圭子ちゃんが理沙と仲違いしたままだった圭子ちゃんでも、今は同じように理沙の態度を不安に思って緊張すると思わない?」

「それは……そう、でしょうか」

「きっとするよ。同じ圭子ちゃんだから。だから緊張しても自然。そのせいで変な感じになっても自然。思いっきり記憶喪失です、異世界ですって言わない限りは何とかなるよ。何とかするし」

「そっか。そうなんですね。ありがとうございます。……なんだか変ですね。解決してないのに、それが解決してて」


 ようやく声に少し明るさが戻った。圭子ちゃんがふっと息を吐いて背もたれに軽く体重を預ける。穏やかに軋む音がして、それは部屋に馴染んだ。

 もうすぐ暮色蒼然。最も好きな時間だった。毎日その時は訪れているはずなのに、気付くのはいつも心が気付こうとしている時だけ。今日の理由を考えると、その呑気さが我ながらおかしかった。

 少し浮かれているのかもしれない。しかしそれも許されるだろう。望んでいた形とは少し変わってしまったが、本当に大切なものが今ここにあるのだ。


 圭子ちゃんが落ち着いたのを見届けて夕食の準備をはじめた。理沙の希望で鍋だった。尋常ではない量の食材がある。「鍋は縮む」と理沙が強く主張したからだ。今日だけで食べきれるはずもないと思ったが、理沙の言うままに材料は揃えた。楽しかったのだ。間違いなく全部を切る必要はないだろう。いつもより残る食材は多くなるが、特に心配はなかった。

 明日もあるのだ。どうにかなる。

 三人もいるのだ。あっという間になくなってしまう。

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