君の背 (6)
気が付くとうつらうつらとしていた。総武線に乗り換えるとしばらくは座ったままだ。起こすから寝てていいと言われたものの、それは少し望みと違っていた。起きていたいのだ。朝早く起きたからだろうか、気を張っていたからだろうか、それとも甘えたがっているのだろうか。強い意志に反して、瞳には何も映らない。
心地よい揺れと充足感。だが、起きていたいのだ。
すぐに夢だと分かった。きっと思い出だ。良が運転をしている。
「まずはじめに、伊勢海老を食べましょう」
かしこまった口調で彼が言った。普段から敬語の混ざる人だが、きっとこれは緊張しているに違いない。しかも、緊張を隠そうとしている。からかってやりたいところだが、そうもいかない。うまい言葉が見つからない。私も同じように緊張していた。なぜなら初デートだったからだ。
それにしても、初デートにしてはなんだかよく分からない場所に連れてこられた。なんだかよく分からない場所に連れてこられたな、という顔をしていたら、見かけで判断するんじゃありませんと怒られた。
こればかりは理不尽だと思った。地理に明るいわけではないが、まったく知らない地名だったのだ。よく分からないものは分からない。仕方がないだろう。
良はこの場所に来たことがあるようだった。「見せたいものがあるから」と言っていた。
そこまで言うからには本当にすごいのだろう。楽しみだ。そもそも彼と一緒ならつまらなくともつまらないねと楽しめるから、どっちでもいいのだが。
宣言通りに伊勢海老を食べた。それほど大きくはないが一尾で千円を優に超えていた。普段は昼食にだって千円をかけることはほとんどない。良はそれを私に奢ると、自分は伊勢海老の出汁をとっているという味噌汁を飲んでいた。別にデートは男が奢るものと考えているわけではないが、良が「お祝いだから」と言ったのでありがたくいただいた。お祝いなら私も良に奢るよと提案したが「いや、俺は味噌汁が好きだから」と固辞された。しかし、食べている最中に味噌汁に少し海老をいれてやると、それは大変歓喜し享受した。
本当は朝市の会場で食べたかったのだが、私たちは車内で食事をした。混雑で席の確保が困難であったからだ。今が最も混む時期なのではないかと良は言った。はじめから車内で食べるつもりだったようで、お手拭きなど様々な準備を良は整えていた。
実は運よく空いた席を見つけたのだが「相席いいですかって聞かれたら気まずい」と一蹴された。相変わらずの人見知りである。
それから良に連れられるままに海を訪れた。電車を見た。牧場に行った。
牧場ではジェラートを食べた。私がピスタチオ味を頼むと、良は私に一口もらってもいいか訊いてきた。
「ピスタチオ味って分からなくなるんだよね。美味しいまた食べようと思った記憶はない気がするから、なんかそうでもなかったのかなあと思って、もうずっと食べてない」
「だから一口食べたいと」
「うん……何かさ、食べ物くらい簡単に試せるものですら一度きりの印象で決めつけてたらさ、いつか偏屈爺になってしまう気がして怖いんだよね」
「じゃあ自分で頼みなよ」
「いや、それはちょっと」
本当に変わった人だと思う。そんな人だからこそ、こうも惹かれ、一緒にいたいと思うのだろう。生きづらそうなのでこうなりたくはないが。
ジェラートを食べ始めると、良はなぜか異常にわざとらしく美味しそうにこれを食べていた。芸能人の過剰な食レポのようである。
「なに、なに。その食べ方は」
「……やっぱりちょっと大袈裟過ぎたかな」
本当にわざとだったようだ。急にすんとした顔になって良は答えた。
「いやさ、幸せなことって多い方がいいじゃない」
「まあ困るものではないよね」
「これからさ、一緒に食事をする機会も増えるわけじゃないですか。それで、目の前の人が美味しそうにご飯を食べてるのって、どちらかというと幸せな気分になるじゃない。だから、練習しようかなって……」
「練習……? うん、いや、まあそう言われると、何も言えないけど……でも、あんまり大袈裟なのはちょっと恥ずかしいかな」
「そうだよね……うん、ひとまずは家で練習しようかな」
そう言って良はいつも通りにスプーンを口に運んだ。
「ピスタチオ……あれ、思ったよりも美味しいな。今度からは、忘れてそうだったら『思ったよりも美味しいって言ってたよ』って言ってもらってもいい? 『意外と美味しい』じゃなくて、『思ったよりも美味しい』」
「嫌よ。面倒くさい。ちゃんと自分で覚えてなさい」
幸せそうな顔をして食べている。私は練習なんてしなくても、今のままでいいと思う。私の方がよほど乏しい表情で食事をしているはずだ。そんなこと意識したこともなかったのだから。
良がそれで幸せを感じてくれるのなら、私も練習してみようかとふと思った。
良の後ろのガラス戸に目を向ける。私の顔が映っていた。すると、思いのほかいい笑顔をしていて驚いた。
「そうだ。次がいよいよ目的地だよ。楽しみにしてて。あ、でもあんまりハードル上がっても困るからほどほどに」
所々せこい人物である。まったく困った人だ。こうなると良いか、悪いか、どちらかに振り切っていて欲しい。どんなところかとても楽しみだった。
「理沙、もう着くよ」
耳元で囁いて、良が肩をゆすった。どうやら寝てしまっていたようだった。
「うーん……いよいよ? さて、どんなところなのかな」
「え、何。なんでそんなに乗り換えに前のめりなの」
「うん……? なにそれ? いいところなの?」
「……まだ寝ぼけてるね。いいところだよ。だから行く準備しよう」
良の持つビニール袋がかさりと音をたてた。ワインのような味がする日本酒で、良が前に美味しいと絶賛したものだから、帰り際電車の到着が間もないというのに無理して買ったのだった。
懐かしい夢を見ていたようだ。いつの間にか思い出に追いついていたらしい。
寝ぼけ眼を擦り瞳に現実を灯すと、窓に自分の顔が映っていた。隣には良がいる。
夢ではないのだ。
横を見た。
ちゃんと良がいる。
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