君の背 (5)

 携帯電話を片手にうんうん唸りながら進む理沙の後をついて歩いていた。

 昼が過ぎて太陽が高くなり、運動すれば体温が上がり過ぎるくらいだ。理沙も着ていたトレンチコートを脱ぎ、寒そうにも見えるワンピース姿を寒風に晒している。

 時々舗装されていない道を進んだ。視界に入るこの土地は畑だろうか。雑草が短く生えただけの空間が見渡す限り続いている。建物はない。目立つものは雑草と、桜の木と、そして一本の線路。桜は線路沿いに植えられている。このデートの目的地だった。


「うーん……分かんないなあ。全部同じように見えてしまう……」

「さすがに完全一致は難しいんじゃないか。そもそも季節が全然違うんだろう。どうせ想像で補う必要があるならここら辺でも、もう一緒なんじゃ」

「そうだねえ……ちょっと見つけられる感じもないしねえ」


 理沙が少し心を残しているように言った。だが足は放浪を止め、これ以上は無駄であると分かっているようだった。

 昔、初デートに俺が選んだ目的地。そして今回は理沙が同じように目的とした場所。それは明媚に菜の花と桜が咲きほころび、さらに美しい春に負けることなく一層映えるローカル線、そのすべてを見ることが出来るという絶景だった。つまり、もう冬といっても差支えのない今の季節はただローカル線が見られる場所だ。実際に先ほど列車が通過するところを見た。長閑な自然の中を郷愁を感じる列車が走る光景は、なるほどそれだけで一幅の絵のような美しさがあった。これに季節までもが最も華やかな状態で視界を彩るのだとすれば、特別な景色として共有したくなる気持ちも分かるというものだ。


「それで、どうしてここなんだ?」

「あら、直球だね」

「別に、タイミングがあるならそれでいいよ。切り出しづらいのかと思っただけ」

「なるほど」


 理沙は感情のこもっていない声で納得した。他に考え事をしているようだった。反対を向いたままこちらを見ない。後ろで組まれた理沙の両手を黙って見つめながら待った。


「ねえ……今日のデート、どうだった?」


 振り向いて、おもむろに理沙が切り出した。俺は一瞬理沙の真意はなんだろうかと頭を働かせたが、すぐにやめた。緊張した様子で俺の言葉を待っている。体はそわそわと横に揺れて落ち着きがない。


「楽しかったよ。なんだか随分と久しぶりにこんな時間を過ごした気がする」


 浮かんだ言葉をそのまま口に出した。それを聞いて理沙が顔を綻ばせる。まるで本当に初デートのようだ。俺も彼女も実際は違うはずなのだが、懐かしくなるような甘酸っぱい反応についこちらが赤面してしまう。


「良かった……」頬を緩めたまま理沙が言った。「私も、すっごく楽しかった! ……初めて来た時と、同じくらいに」


 そう言って理沙は言葉を切り、こちらを見つめてきた。

 まただ。呑まれそうな瞳をしている。何を見ているのかは分からない。しかし希望に溢れた者がする目には思えなくて苦しかった。今日はこんな時間が多い気がする。幸せな表情をしたすぐ後に、いや幸せを感じた直後だからこそ意識してしまうのかもしれない。十分に間を取った後、理沙はなんだか泣き出しそうな声で話し出した。


「前の時もね、今日と同じところに行ったんだ。なぞりたい気持ちがあったのもあるし、有名なところだとまあここになっちゃうかなっていうのもある。東京駅に集合して、到着したら朝市に行って、海岸行って、電車を見て、ジェラートを食べて、ここに来た。私も今日の良と一緒で、本当にここなのかとはじめは疑っていたけど、最後にはこうしてまた来るくらいに好きになった。やっぱりいいところだったよ。さすが良の選んだ場所だね」


 頷いていいものなのか分からなかった。いいところだとは思う。慣れの問題かもしれないが、空気の冴えや時間がまだ完全に人に管理されていないところは自分に合っていると感じる。しかし最後持ち上げるみたいにおどけた理沙の目には最も美しかったこの景色が映っていた。理沙がそれを共有したいと思わないのならば、今日俺と理沙が見ていたものはきっと違うものだ。


 地面が笑うように揺れていた。春の匂いはしない。鼻がつんと痛い。


「ねえ、良。明後日に圭子が来るのにこんなことを言うのもどうかとは思うんだけど」視線を逸らして、理沙がかすれた声で言った。「これから先さ、絶対私と一緒じゃなきゃいけないってことは、ないからね」


 大した話ではないとでも言うような口ぶりだった。しかし目には涙を湛えながら、睨みつけるような表情をしている。

 一瞬、脳が掠め取られたかのように手繰れど思考が浮かんでこなくなった。

 絞り出すような声。他人を先にして己を次にする。優しい人が耐えられなくなる間際。


 その時、蝶々結びを解くようにふっと頭が軽くなった。にわかに記憶が眩む閃光があって、目を瞑ると瞼の奥に花畑が広がった。薄紫の秋桜のような花。そうか、きっとあの時と同じ。ならば、確かに俺はここにいたのかもしれない。

 異世界で旅をしてしばらく経った頃、リサがまだケイコちゃんとの関係を修復できずに苦しんでいた頃、俺はリサに告白をした。約束をした。何があっても必ずリサの味方となり支えることを、愛し続けることを。その場所は今いるここよりもずっと広く花が咲き誇っていた。ずっと支えるという約束を鮮やかな景色とともに記憶に焼き付けて、リサにいつだってひとりではないと感じてもらえたらと馬鹿馬鹿しくも考えた。

 ここにいたのが俺だったのなら、同じように馬鹿なことをしたのかもしれない。


「ひとつ、質問してもいい?」


 理沙は強張った表情をして見つめ返してきた。聞かざるを得ない質問に怯えているようだった。


「俺は、ここで理沙と何か約束したりはしなかった?」


 理沙の目が大きくなった。そしてしばたたかせた後、考え事に意識が向いたように虚ろになった。しばらくして俺の目を捉えると、力なく笑って答えた。


「さあ? 良はよく恰好つけるから」

「じゃあ今、約束するよ」


 理沙がなぜ明言を避けたのかは分からなかった。していないと答えないのならば、した可能性の方がずっとあり得そうに思えた。だが、それは考えても分かりようのないことだった。そして答えが何であれ関係はないのだ。以前の自分がしていないのならば、今の自分がすればいい。


「俺は理沙と一緒に生きていきたい。君に幸せであって欲しい。だから二人が幸せであるためにどうしたらいいのかを一番に考え続けることを、努力し続けることを約束する。君を愛し続けることを約束する」


 自分にとっては変わらない約束。理沙が記憶を失っていたとしても変わらない。約束をすること、それを守ること、その事実を支えにしたいというのは甘いのだろうか。


「……まあ、つまり……理沙、俺はあなたが好きです。どうかこれからも一緒にいて欲しい」

「そうなんだ……」


 理沙は噛みしめるように呟くと突然背を向けて一歩、また一歩と歩を進めた。そっかあ、そっかあと声が漏れている。離れ過ぎないように後を付いていく。少し歩いてぴたと静止した。顔を下に向けたまま上半身でゆっくりと振り返る。視界の端に俺を捉えるくらいで、一瞬びくりとして再びぐるんと元の向きに戻ってしまった。しばらくもじもじしながら立ったかと思うと、またゆっくりと様子を伺うように体を回そうとする。しかし今度はすぐに折り返してしまった。はじめてだるまさんが転んだをする子どものようだった。

 やがて奮い立たせるように体全体を使って勢いをつけると急にこちらへと向き直った。すっきりとした表情をしていた。


「帰ろう」


 まるで朝の軽い挨拶のように理沙が言った。俺もうんとだけ言って頷いた。理沙がもう少し近づくまで待とうと思い立っていると、どういうつもりか理沙も動かない。かかしのように二人で立ち尽くした。訝しんで理沙を見ると、誤魔化すように笑って小首を傾げた。先に行けばいいのかと思い帰路に舵を取ると、すぐに背中に理沙が飛びついてきた。心地よい衝撃が背中にあった。


「もう、冬だね」


 思ったよりも落ち着いた声で理沙が言った。


「うん」

「あったかいものが美味しくなるね」

「うん」

「私、あんこう鍋が食べてみたい」

「あれって結構高くなかった?」

「冬だからいいの! そういえば、クリスマスのことも考えなくちゃね」

「そうか……クリスマスか……あれ、でもまだ早いんじゃない?」

「今年は一番凄いクリスマスにする予定だから、全然早くない」

「凄いクリスマス」

「ねえ」

「うん」

「私、幸せよ」

「……」

「一緒に頑張るからね」


 身体を返すと理沙はすぐにまた抱きついてきた。頭を胸に弱々しく押し付けている。

 名前を呼んだ。彼女が顔を起こしてこちらを見た。理沙の背中に手を回し、強く抱き寄せた。理沙が静かに驚きの声を漏らした。

 非日常と日常の混ざる音がしていた。

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